世界遺産の見方 2.感性的鑑賞法
一般的に世界遺産、特に文化遺産は知性的な見方をされることが大半です。
でも、ぼくがオススメしたいのは感性的な見方。
世界遺産をアートとして捉える方法です。
なぜって、感性的な見方こそ世界遺産条約が言う普遍的価値に近づく道しるべだと考えるからです。
そもそも、世界遺産ってなんでしょう?
世界遺産条約において、世界遺産とは顕著な普遍的価値(O.U.V.=Outstanding Universal Value)を持つ物件をリストアップした世界遺産リスト記載の文化遺産や自然遺産を示します。
そしてその価値が「普遍」である以上、世界遺産は時代や国や民族・宗教を超えた人類共通の価値を持たなければなりません。
ではその普遍的価値とはなんでしょう?
世界遺産条約にはO.U.V.そのものの明確な定義はなされていません。
定義が難しいものであるということは想像できると思います。
もしかしたら全人類に共通するものですから、「あなたにもなんとなくわかりますよね?」ということなのかもしれません。

また絵にたとえてみましょう。
前回紹介したカンディンスキーの「印象III <コンサート>」にはどんな価値があるのでしょうか?
絵画の技法や歴史的な価値があることはわかりますが、そもそも「印象III <コンサート>」は「絵」です。
絵の価値と技法や歴史にはどんな関係があるのでしょうか?
たとえば「印象III <コンサート>」がカンディンスキーとは関係のない別の人間によって描かれたことが判明したとしましょう。
そしたらその絵の価値は突然消え失せるのでしょうか?
そんなはずはありません。
絵には絵そのものに価値があるはずです。
その絵を描いたのが誰であろうと、どこであろうと、いつであろうと、どのような技法であろうと、それらとは無関係にその絵そのものに価値があるはずです。
経済的価値は「誰がいつ描いたか」で変わりますが、絵本来の価値がそんなもので変わるはずがないのです。
絵には純粋に絵としての美的価値があるはずで、それは技法や歴史などの「解釈」とは完全に独立していなければなりません。
解釈や意味に価値があるのなら、画家は文章でそれを表せばよいのですから。
解釈=意味=論理ですから、それらは文章で表現できるはずです。
「例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花が咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(スミレ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えて了うことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう」
(『小林秀雄全作品21 美を求める心』新潮社より)
だから知識を捨て、言葉を捨てて、沈黙の中で感じ取ることが大切なのです。

「詩の中のバラは、私にとっては、あくまで言葉であるにすぎず、それ故、それは本当のバラとは似ても似つかない。それは、匂いも、色も、重さももっていない。それはただ、せいぜいわたしたちの心に訴えるものにすぎない。だが、本当のバラは、この地上に、私たちの目の前に、鼻の先に、唇の触れる所に咲いているのである。私たちは、それに触れ、その色を見、その花びらの重さをはかり、その匂いをかぎ、更に、それを踏みにじることさえ出来る。私たちは心だけでなく、自らの感官のすべて、肉体のすべて、存在のすべてをあげて、そのバラとむすばれることが出来る。そのバラは本物であり、詩の中のバラは、もし本当のバラと比較するのなら、にせ物であると私は考える。
一輪の本当のバラは沈黙している。だが、その沈黙は、バラについての、リルケのいかなる美しい詩句にもまして、私を慰める。言葉とは本来そのような貧しさに住むものではないのか。バラについてのすべての言葉は、一輪の本当のバラの沈黙のためにあるのだ」
(谷川俊太郎『二十億光年の孤独』集英社文庫より)
絵には視覚を揺さぶる美的価値がなければなりません。
そしてその美的価値は人類共通のもの。
アートが時代や国境を超える理由がここにあります。
こうした話は「Art 2:絵&写真の話」あたりで書いているので詳細はこちらを参照ください。
さて、そこで世界遺産です。
イギリスのストーンヘンジを見る。
その歴史はとても興味深いものですが、でもぼくはまず何も考えずにこの世界遺産を見るべきだと考えています。
なぜなら、感性的にものを見るうえで、知識が邪魔をするからです。
虫=汚いという知識を身につけてしまった人は虫を美的に見ることができません。
クジラを食べること=非道徳的という知識を信じている人はクジラの刺身を見た瞬間に吐き気を催します。
きれい-汚い、正しい-間違い、善-悪などという、その時代・その文化・その地方でしか通用しない小さな価値観でものを見ても、普遍性に近づくことはできないのです。
カンディンスキーの「印象III <コンサート>」の美的価値は、「コンサートを描いた絵である」なとどいう知識に左右されません。
カンディンスキーの手紙が見つかって、「あれはコンサートを描いてはいないんだよ」なんてことになっても絵の価値が変わろうはずがありません。
あの形・色が視覚的に美しいから「印象III <コンサート>」に価値があるのです。
そしてそれはいつ、誰が、どこで見ても変わりません。
殴られたら痛い。
それが人類共通であることと同じです。
「印象III <コンサート>」でまず見るべきは、それが何を意味するかではなく、その形と色が何を感じさせてくれるのか、です。
抽象画は形がない分、具象画よりも感じるのが簡単です。
ゴッホの「ひまわり」を見て「ひまわりのここがリアルよね」などと、ひまわりという先入観に犯される恐れがないからです。

さて、世界遺産です。
ストーンヘンジ。
明らかに変です。
石がない場所に石が立つというその光景の異様さ。
自然界では見たことがない円というその形の不可解さ。
石の上に石が並ぶというその意匠の特異さ。
こういうものは考えるまでもなくいきなり感覚に入ってきます。
それはいずれの世界遺産にも共通する感覚です。
マピュピチュ。
早朝、マチュピチュに登りましたが、一面霧に覆われていて視界は10mもありませんでした。
ところが日が昇ると同時に一気に霧が消え去り、マチュピチュが姿を現しました。
そこにいた人全員が拍手をし、握手をし、抱き合いました。
マチュピチュがなぜあそこに建てられたのか?
周りにはもっと高くて目立つ場所もあるし、低くてよい環境の場所もありました。
その理由はいまだ謎に包まれていますが、あの場にいた人は全員が感じたはずです。
キリマンジャロ。
その圧倒的な存在感。
光り輝く山頂の美しさ。
これらを感じたならなぜマサイ族の人々が「ヌガイエ・ヌガイ」、神が住まう家と呼ぶのかひと目で理解できるはずです。
そしてそれらが「神」という言葉でしか表現できないことを知るでしょう。
法隆寺。
なぜ法隆寺はあのような非対称な配置をしていて、あのような高度な建築法が用いられたのでしょうか?
世界最古の木造建築であるとか校倉造りがいかに効果的だったかというエピソードも重要ですが、あの寺を建てた人々はそんなことを伝えたかったのではありません。
あの形・配置によってしか伝わらないある感覚を伝えたかったはずなのです。
それは画家が絵を描くのと同じこと。
技術は手段にすぎません。
言葉では表せないから絵を描き、ストーンヘンジやマチュピチュや法隆寺を建てるのです。
というわけで。
はじめてその世界遺産を見る際には、言葉という遮蔽幕は取り去るべきでしょう。
「天上に視線を及ぼし、地の底を探っても無駄である。学者の著書に諮って古代の暗い足跡をたどっても無駄である。知識の木の実は甘美で我々の手の届くところにあるが、そうした知識のいと麗しい木を見るには、言葉の遮蔽幕を取り除けるだけでよいのである」
(ジョージ・バークリー『人知原理論』岩波文庫より)
いっさいの意味性を排除して、自分の感性を信じること。
ものを意味で捉えようとせず、感じるままに任せること。
ストーンヘンジやマチュピチュは訴えかける力が半端じゃありませんから、誰でも直感的に感じることができます。
でも、それがとても難しい世界遺産も数多く存在します。
というか。
何も世界遺産でなくたって、そうしたものはいつでもどこでも感じられるものだとぼくは考えています。
カメラマンがなんでもない景色からとんでもなく美しい写真を撮るように。
画家が何もない場所から美しい絵を完成させるように。
死に際にはものがとても美しく見えると言いますが、まさにその視線です。
そのような視線がいまいちよくわからない人は抽象画を見ることをオススメします。
抽象画は「これは……の絵である」なとという言葉が通用せず、感性に頼るほかないからです。
その美しさがわかったとき、自分の中にいる人間の存在に気づくでしょう。
世界遺産条約がいうO.U.V.も、これと深い関係があるはずです。
死に際の視線――
これをぜひ、手に入れてください。
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