味わう世界遺産1:王様のワイン トカイ
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テ ー マ:世界遺産で生産される至高の貴腐ワイン、トカイ
世界遺産:トカイ・ワイン産地の歴史的文化的景観
Tokaj Wine Region Historic Cultural Landscape
国 名:ハンガリー
登 録 年:2002年
登録基準:文化遺産(iii)(v)
概 要:紀元前から伝わると言われるワインの名産地トカイ・ヘジャリア地域。豊かな日照、大きな寒暖差、火山性の土壌、深い川霧といった気候はブドウの生産と貴腐菌の繁殖に最適で、この地で世界ではじめて貴腐ワインが生産された。中世から伝わるワイン製法と貯蔵室等の醸造施設はいまなお健在で、ヘジャリア地域の1地方であるトカイ村のワイン畑の美しい景観と生産設備が世界遺産に登録された。
* * *
17世紀、季節は秋。
ハンガリー東部の村トカイはローマ時代からのワインの名産地で、この年もブドウの収穫期を迎えていた。
そんな折、アナトリア高原の支配を固めたオスマン・トルコがヨーロッパに侵出し、ついにハンガリーに到達する。
トカイの村人は収穫をあきらめ、村からの待避を決定した。
人々が村に戻ってきたのはその年の初冬。
トカイは夏、あるいは日中は暖かいが、冬、あるいは朝晩は急激に冷え込む典型的な大陸性気候。
秋から冬にかけての早朝、気温はティサ川とボドログ川の水温を下回り、そのせいで生まれた深い川霧が村をすっかり覆ってしまう。
霧が晴れたあと、ブドウを見て村人たちは落胆した。
霧によってもたらされた水分によってブドウの表面に大量のカビが発生。
カビの作用でブドウの果実から水分が逃げ出し、干しブドウのような無残な姿に変貌を遂げていた。
それでもあきらめきれず、人々はそんなブドウを収穫してワインを醸造した。
翌年。
できあがったワインに村人たちは驚嘆する。
「ネメス・ロトハダシュ!――なんて高貴な腐敗!!」
トカイ村に伝わる貴腐ワイン誕生の伝説だ。
* * *
もともとトカイの地は痩せていて、寒暖の差が激しく、乾燥した不毛の地。
穀物の栽培には適さなかったが、しかしブドウの栽培にはもってこいの土地柄だった。
12世紀にブドウ栽培が確立されるとハンガリーやオーストリア王家の庇護を受け、国の経済を支えるまでに発展する。
その名声が世界に知れ渡るのは18世紀のこと。
「朕は国家なり」とうそぶき、「私の中には太陽が宿っている」と自らが神の使者であることを宣言したフランス・ブルボン朝のルイ14世は、パリ郊外に「宮殿の中の宮殿」と言われるヴェルサイユ宮殿(世界遺産)を建設する。
宮殿の中で給される料理のために世界中の贅が集められ、ルイ14世やルイ15世の時代に誕生した料理法や作法はやがてフランス料理(世界無形文化遺産)として開花する。
そんな豪華絢爛たる料理の中で、ルイ14世を特に驚かせたワインがあった。
口に含むやルイ14世はこうつぶやいたという。
「これこそ王のワインにしてワインの王なり」
当時の世界中の皇帝や王がヴェルサイユに魅了されて似たような宮殿を競って建築したように、ローマ教皇ベネティクト14世、オーストリア皇帝マリア・テレジア、ロシア皇帝ピョートル1世、フランス王ナポレオン3世をはじめとする数々の皇帝・王たちがトカイ・ワインの虜になり、買い集めたという。
* * *
皇帝たちを魅了したトカイ・ワインの濃厚な味わいと甘みの秘密は、貴腐菌、あるいはボトリティス・シネレアと呼ばれるカビにある。
ただでさえ日照量が多く乾燥している土地柄ゆえ濃厚なブドウが育つトカイ地方だが、このカビは水分の蒸発を防ぐブドウの果皮表面を冒してロウ質を奪い去り、それが果実内部の水分の蒸発を促して糖度・香りを極限まで高めていく。
白ワインでありながら色合いはきわめて濃厚で、その輝きは金に近い。
マリア・テレジアが「金が入っているのではないか」と成分を分析させたというのもうなずける。
まさに貴く腐ったワイン=貴腐(きふ)ワインなのだ。
さて、この貴腐ワイン。
実は製法によっていくつか種類がある。
貴腐化したブドウだけを手積みしてプットニュと呼ばれる桶に収穫し、そのままブドウ自身の重みで絞られた果汁を自然発酵させたトカイ・ワインを「エッセンシア」と呼ぶ。
貴腐化から発酵まですべてを自然に任せたとても貴重なワインで「トカイの王様」と呼ばれている。
ぼくは以前飲んだのは「トカイ・エッセンシア キライウドゥヴァル」。
「トカイの伝説」と呼ばれる醸造家、セプシ・イシュトヴァーン氏が作った至高の逸品だ。
本当に金のような輝き。
グラスに注ぐだけで立ち込める蜜の香り。
舌に転がすと本当にハチミツのように甘い。
しかし砂糖のような尖った感じもベタつきもなく、ブドウのわずかに残る酸味が後味をキュッと引き締める。
すごい……。
この「エッセンシア」以外の多くのトカイ・ワインは貴腐ブドウと通常のブドウを別々に発酵させ、できあがった貴腐ワインと白ワインをブレンドして作られる。
これは世界三大貴腐ワインの残りのふたつ、ドイツのトロッケンベーレンアウスレーゼもフランスのソーテルヌも同様だ。
トカイ・ワインでは原則として貴腐ブドウの桶=プットニュの割合が多ければ多いほど糖度が上がり、貴重なものとされている。
現在、糖度は3~6までの「プットニョシュ」という単位によって表され、3プットニョシュだと136Lの樽で糖分が60~90g、6プットニョシュだと150~180gと規格が決められており、それ以上のものは特別に「アスー・エッセンシア」という名が与えられている。
ちなみに先の「エッセンシア」の場合、糖分が500gを超えるものもあるという。
これらとは別に、貴腐ブドウと通常のブドウを区別せず、房ごとそのまま一緒に発酵させた「サモロドニ」と呼ばれるトカイ・ワインがある。
糖度も発酵も自然任せという古来の製法で作られており、貴腐ブドウの割合や発酵の進み具合で毎年甘口・辛口・アルコール濃度が変化する。
日本の酒屋やデパート、スーパーで見かけれるのはたいてい3~5プットニョシュのトカイ・ワインだ。
3プットニョシュは白ワインの割合が多いので、トカイらしい味わいを楽しみたければやはり5プットニョシュ以上のものをオススメしたい。
左から3プットニョシュ、5プットニョシュ、アスー・エッセンシア、そしてエッセンシア。
さすがのお値段。
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トカイ・ワインの楽しみ方について、以前ハンガリー料理店のソムリエに話を伺ったことがある。
そのソムリエによると、甘みが強いので食べ物との相性を考えるのではなく、単独で飲むことが多いとのこと。
その場合、アペリティフ(食前酒)としてもディジェスティフ(食後酒)としても楽しめるし、ナイト・キャップにも向いている。
特にデザートを好まない人には食後にチーズとトカイ・ワインを勧めるのだそうだ。
ぼくのお気に入りもこのいただき方。
たとえばハチミツをかけて食べるようなブルーチーズ、シェーブルチーズ、フレッシュチーズに、あえてハチミツをかけずにトカイ・ワインを合わせる。
最高だ!
そしてエッセンシアやアスー・エッセンシアについては、ほんのひと口、あるいは一杯を単独でゆっくり楽しむ。
何もせず、何も考えず、ただただいい絵を見るようにその感覚に満たされる。
どちらかと言えば蒸留酒の楽しみ方に近い。
ハンガリーではトカイ・ワインはしばしばソースに用いられる。
特にハンガリーのもうひとつの名産品であるフォアグラとの相性は抜群だ。
当然トカイ・ワインのソースにはトカイ・ワインが合うというもの。
この場合は食中酒として甘さを抑えたものが適するだろう。
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このようなすばらしいワインを生んだ美しいワイン畑は、自然の風土と人間の英知が一体となって造り上げた共同作品=文化的景観だ。
2002年、その普遍的価値が認められ、ヘジャリア地域の1地方であるトカイ村のワイン畑は「トカイ・ワイン産地の歴史的文化的景観」として世界遺産に登録された。
あなたが手にする一杯は、こうした物語の結実なのである。