世界遺産の見方 3.異文化理解の方法論
文化遺産を理解するためにはその背景にある文化を知らなければなりません。
でも、世界を旅しているとそれが相当難しいことを実感します。
世界遺産から少し離れますが、ここでは他文化理解と他者理解について考えてみたいと思います。
たとえば海外で下のような場面を目にしました。
どう思いますか?
- 中国の電車の通路でお母さんが子供にオシッコさせていた
- 韓国で犬の料理店があった
- アフリカや東南アジアの子どもたちがゴキブリで遊んでいた
- 大麻を非犯罪化している国があった
- トイレに仕切りがない地方があった
オシッコ=汚い。
これは正しい価値観でしょうか?
医学的には健康な人の尿は飲んでも問題ないそうです。
犬食=野蛮。
これはどうでしょう?
ヒンドゥー教徒にとってウシを、イスラム・ユダヤ教徒にとってブタを、多くの西欧人にとってクジラを食べることは野蛮です。
ゴキブリ=怖い。
これは?
ぼくが海外でいちばん警戒したのは蚊です。
マラリア、デング熱、日本脳炎……ゴキブリより蚊の方がよほど怖い。
ヘビには毒蛇が多いし、ネズミは過去ペストを媒介してたいへんな死者を出しました。
でも、そんな蚊やヘビやネズミよりゴキブリを怖がるってよくわかりません。
大麻=悪。
ほんと?
古代エジプトの壁画にも描かれているほど大麻喫煙の歴史は古いもの。
ビールやワインと少しも変わりません。
アフリカとか中東では「マルボロと交換してくれ」と言って大麻を持ってくる現地人がいました。
ぼくはタバコも吸わないけれど、彼らにとって大麻にはそれだけの価値しかないってことでしょう。
実際身体依存もないし身体毒性も低いようですし。
排泄=恥ずかしい。
でも中国人は銭湯の方が恥ずかしいのだそうです。
ムスリムの女性は髪を見られることすら恥ずかしがります。
たとえば「手の甲を隠す」ことが流行したら、あなたも途端に「手の甲を見せること」を恥ずかしく感じるようになる。
「恥ずかしい-恥ずかしくない」という感情はそんな程度のものでしかありません。
結局。
オシッコ=汚い。
犬食=野蛮。
ゴキブリ=怖い。
大麻=悪。
排泄=恥ずかしい。
いずれも日本人の大半がそう「信じている」というだけ。
たとえば海外には「外国人価格」なんてものがあったりします。
英語のメニューと現地語のメニューで値段が違うんです。
でも、「きれい-汚い」という価値観すら一定でないとすると、外国人価格のおかしさなんてたいしたことないように思えてきます。
論を広げてみましょう。
カニバリズム(人肉食)や生け贄文化=野蛮。
これはどうでしょう?
実際調べてみると、カニバリズムの多くは亡くなった親類を食べるようです。
先祖の心や身体を引き継ぐために、自分の中で活かすために、先祖を忘れないために。
アステカの生け贄は立候補者がとても多かったと言われています。
生け贄=幸福と「信じている」人にとってそれは野蛮でもなんでもないのでしょう。
お風呂=父親が最初に入る。
ほんの数十年前まで、これが日本人にとって当たり前の感覚でした。
中国やインドで「おしん」が流行っていたらしく、よく「日本じゃお父さんが最初にお風呂に入るんでしょ?」と問われたものでした。
いまではこれを「信じている」人は多くありません。
同様に、ぼくたちの文化も数十年後・数百年後には「なんじゃそりゃ」と思われてしまうような変な価値観に満ちているのでしょう。
どれもこれもそう「信じている」という思想・信条にすぎないことがよくわかります。
では、よりたしかに感じられる科学理論はどうでしょう?
物が落ちるのは重力があるからだ。
これは?
思うのですが、これって「物が落ちる」という現象に「重力」という名前をつけただけじゃないですか?
物を落とすとt秒後に1/2gt^2の位置にあることはわかります。
でも「なぜ落ちるのか」にはまるで答えていません。
ただ、教科書にそう書いてあるし先生がそう言ってるしみんながそう「信じている」から自分もそう「信じている」。
だって「神様が重力加速度gで物を引っ張っている」と主張しても結果はまったく変わりません。
重力を信じるか、神様を信じるか。
それだけの違いでしょう。
天動説=間違い、地動説=正しい。
これも同じです。
教科書にそう書いてあるし、星の動きはそれでうまく説明できるからそう「信じている」。
惑星の動き、年周視差、年周光行差、フーコーの振り子……
何を持ってきても天動説でだって説明しようと思えばできます。
ただやたらと面倒だからしないだけ。
多くの人が神様を信じていました。
それで問題ありませんでした。
現代の人たちは多くが科学を信じています。
それで全然問題ありません。
1,000年前の科学者には1,000年前の科学がどうしようもなく正しく思えたことでしょう。
ぼくたちには現代科学がどうしようもなく正しく思えます。
でも、1,000年後の人たちはぼくたちとはまったく違う科学を信じているでしょう。
正しいとか間違っているとか、そんなことまったく関係ありません。
信じるように世界は開ける。
そしてその世界の中で人は生きる。
そういうことなのでしょう。
結局。
人間の根底には「信じる」という行為があるようです。
その信仰のうえに知識は形作られます。
「知らんがために我信ず」(アンセルムス)ということですね。
ものを知るためにはまず物事を信じて、正しい-間違い、キレイ-汚い、怖い-怖くない、楽しい-楽しくないといった軸を整備しなければならないのでしょう。
逆に言えば。
誰にでもその行為・思想・信条を正当化するロジックがあるということでもあります。
どんなに間違いに見えても、汚く見えても、怖く見えても、野蛮に見えても、恥ずかしく見えても、ある角度から見るとそうは見えない。
そんな角度があるということです。
その角度を探すこと。
そのルールを探すこと。
これが他文化理解であり、他者理解だとぼくは思います。
そもそも。
人は真に悪だと思っていることは実行できません。
真の悪は発想できないのです。
たとえば。
「靴の中にお箸を入れる」
子供がこんなことをしでかした。
親にとってそれは意味のない「悪」ですが、子供にはその行動になんらかの価値があった。
その価値観から見たら「正」となる。
だから発想しえたのだし、行動したのでしょう。
犯罪者には必ずそれを「正」とする角度がある。
だからその罪を実行する。
子供を、犯罪者を理解したいのであればその角度を発見することです。
そして、彼らの角度を少しずつ修正して社会の角度と一致させること。
これが教育です。
同じことは政治にも言えます。
ナチスのホロコースト、文化大革命やスターリンの大粛清、カンボジアやルワンダの虐殺……
こうした誰もが悪だと思うことだって「正」になりうる。
だからこそ何万・何十万という一般人が虐殺に手を貸しました。
同じ状況になったら、ぼくにも、あなたにも、人が殺せるのです。
「戦争は悪だ」
「虐殺は非道だ」
こんな主張が大切だとは思えません。
だって戦争でもっとも多くの死者が出たのは20世紀ですよ?
人権概念がもっとも浸透した時代に、もっとも多くの人間が殺されたのです。
「善を増やし悪を減らすことで平和を実現する」というアプローチは完全に失敗です。
ぼくらが考えなくてはならないのは、どうやったら戦争や虐殺が「正」になるのか。
その角度を発見し、そのルールを理解することではないでしょうか。
戦争や虐殺を否定したいなら、その角度を理解したうえで、そのロジックの内部から否定する必要があるのだと思います。
次回はもう少し「正しい-間違い」について考えてみようと思います。
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