たびロジー10:語りえぬもの
科学者は梅干の味を知っているか?
わからない。
ロボットは痛みを感じているか?
わからない。
ある行為にある行為をリアクションする。
これが脳の役割なら、感覚も心もいらない。
人が転ぶ。
膝がすりむける。
膝を押さえてもだえる。
脳内を痛みの電気信号が駆け抜け、様々に反応して運動神経を動かし、膝をさすったりツバをつけたりもだえたりするリアクションを起こす。
感覚も心もいらない。
ただそのように反応すればいい。
痛みを感じたように振る舞うよう、プログラムされているだけでいい。
でも、実際は転ぶとリアルに、痛い。
反対に。
ここに感覚も心もなく、ただ反応するだけの人間機械がある。
そこに感覚も心も持つ、本当の人がいる。
区別はつくか?
同様に。
他人が感覚や心を持たないただ反応するだけの人間機械なのか、それとも感覚も心も持つ人なのか。
その区別はつくか?
本当に、他人に心があるんだろうか?
みんな機械なんじゃないだろうか?
人間機械と人は、脳の反応は完全に同じ。
だから見分ける方法はない。
動植物や機械に感覚や心があるか?
見分ける方法はまったくない。
他人に感覚や心があるか?
永遠にわからない。
「ものを考えたり感じたり知覚したりできる仕掛けの機械があるとする。その機械全体を同じ割合で拡大し、風車小屋の中にでも入るように、その中に入ってみたとする。だがその場合、機械の内部を探って、目に映るものといえば、部分部分が互いに動かしあっている姿だけで、表象について説明するに足りるものは、けっして発見できはしない」
(ライプニッツ『モナドロジー』)。
おそらく。
すべての物理法則と梅干の構造、人間の体や脳の構造が完全に解き明かされても、梅干の味は謎のまま。
膝がすりむけたときの痛みも謎のまま。
ただ、理由はなんなのかよくわからないけれども、科学のおかげでよりおいしいものが合理的に作られて、痛みを抑える薬も開発される。
科学は理由を解明する体系ではなく、現象を観察して事実を組み上げる体系だ。
1,000年前と、現在と、1,000年後と、宗教も科学もまったく変わり、見ている景色も全然異なる。
でも間違いない。
人はおいしいと感じ、痛いと感じ、美しいと感じ、喜び、笑い、泣き、愛し、生きてきた。
生きる。
生きていく。