たびロジー8:科学の地平
人が見ていること、聞いていること、感じていること、これらはすべて脳によって処理されている。
だから、すべては脳が生み出したものだ。
違う。
反証しよう。
* * *
脳は絶対的なもので、人が考えたり感じたりする情報は脳が生み出した相対的なものである(1.脳=絶対)。
では、脳という概念はどこから生まれたか?
脳は、脳を観察したり、実験したり、あるいは脳についての学説を本で読んだり、脳について学校で教わったりして学んだものだ。
つまり脳は、人が考えたり感じたりして生まれた概念だ。
人が考えたり感じたりする情報は相対的なものであるから、脳も相対的なものにすぎないという結論が得られる(2.脳=相対)。
1と2は矛盾する。
* * *
人の考え方にはパターンがある。
そのパターンで人の考え方を測ることはできない。
科学はすべてそのパターンを経た後の結論だ。
人の考え方というフィルターを通した後の結果だ。
赤いサングラスをかけて見れば、すべてが赤く見える。
当たり前の話。
人の考え方はすべて赤いサングラスをかけた後の結果だ。
だから見えるもの、考えることが法則性に満ちているのは当然だ。
では、科学を生み出す前の、そのパターンってなんだ?
科学のもとになる、人間の感覚や思考ってなんだ?
何がそれらを生み出しているんだ?
そのパターンは科学が生まれる前のものだから、これを考えるとき、いっさいの科学が通用しない。
たとえば時間概念はそのパターンが生み出したものだから、パターンとは何かを語ろうとするとき、時間概念を認めた後に成立する宇宙論も進化論も遺伝子論も心理学も考古学も使うことができない。
「意識が脳のような物理的システムから生じると信じることには、十分立派な理由があるが、それがどのようにして生じるのか、あるいは、そもそもなぜそれが存在するのかについては、さっぱりわかっていない。脳のような物理的システムが、どうして経験をするものでありうるのか? ……現在の科学理論は、意識をめぐる本当にやっかいな疑問にはほとんど触れていない。詳細な理論が欠けているだけではない。意識が自然の秩序の中にどうはめ込まれているかという点では、我々は完全に闇の中に置かれている」
(デイヴィッド・チャーマーズ『意識する心』白揚社)
人は、目で見、鼻で嗅ぎ、口で味わい、耳で聞き、肌で触れた感覚をもとに法則性を見出す。
と言うより。
人は、目で見、鼻で嗅ぎ、口で味わい、耳で聞き、肌で触れた情報をもとに、あるパターンで情報を整理して、法則どおりに世界を4次元時空に投影する。
感じることで情報を得て、考えることで情報を整理する(つきつめると感じることと考えることは区別できないのだけれど)。
その結果見ているのがこの世界だ。
言えることは1つ。
人を語ろうとするとき、科学は通用しない。
真実は、一人ひとりが考え、感じなければ到達できない場所にある。