旅日記1:京都へ 前編
すごく、すごく久し振りに京都へ行った。
すごく、すごくよかった。
なにがよかったって?
山の香りとか、壁の煤けた感じとか、寺社の神々しさとか、光の陰影とか、料理にこめられた想いとか、空気の軽さとか、寒さの凛々しさとか……
それら無数の要素が積み重なってできあがる街としての京都のすばらしさ。
その個々をね、東京と比べるといろいろ違いがわかる。
たとえば料理。
明らかに京都の方がおいしい。
もちろん東京にもおいしい店がたくさんあるのを知っている。
でもね、京都の店は小さなお店でも野菜や魚に対する敬意や、物をいただくということの本質、それを人に出すということの意味がよく吟味して作られている。
たったお浸しひとつとってもやたらと丁寧だし、塩加減も抜群。
こんな面倒な仕事をこんなに小さな店がよくぞ、と。
それは家並みも同じことで、玄関とか鴨居とか障子とか、ほんの細かいところにまでね、人に対する想いや自然に対する感謝が込められていることがわかる。
そういった想いがそこここから伝わってくる。
その想いの集大成と言えるのが庭園だ。
日本の庭園は中国の庭園の影響を受けているのだが、中国庭園には3つの心境がこめられている。
自然の景観から美を絵画のように切り取って再現した「画境」。
庭園全体をデザインして自分の心意気を示した「意境」。
そうした庭園に大自然の動植物が行き来して生命の神秘を物語る「生境」。
庭園は大自然の縮図であるだけでなく、美を抽出したアートであり、人の心を表現した文化でもある。
そして。
ぼくには京都がひとつの庭に見える。
そこここにこだわりがあり、想いがある。
* * *
「なあ、千重子、楠て、お父さんも、よう知らんけど、暖かい土地、南国の木やないのやろか。熱海とか、九州とかでは、そら、さかんなもんや。ここのは老木やけど、大きい盆栽みたいな感じせえへんか。」
「それが、京都やおへんの? 山でも、川でも、人でも……。」
(川端康成『古都』新潮文庫より)
* * *
そう、こんな感じ。
杉林や田園風景のように人間と自然が共生している姿。
これほどそれが伝わってくる街は世界でも例がない。
そう思う。
こんな街に住みたいな、と素直に思った。
もちろん、こだわりがあるだけに社会にはきっと強いつながりがあって、おいそれと入れないような壁があるのだろうとは思うのだけれども。
でも、それが人だと、それが街だと、強く感じた。