たびロジー3:裸とワイセツ
人の前で裸になることは恥ずかしい。
トイレの姿を見せることも恥ずかしい。
はじめて中国に行って北京のスラムに住む韓国人の家に泊めてもらったとき、彼らの家にはトイレがなかったので公衆トイレに通っていた。
入って驚いた。
正方形の穴が4つあるだけ。
どうすりゃいいんだ?
どっちを向いてどのようにすればいいんだ?
だいたい人が入ってくるじゃないか。
ところがそこに住む人々も、中国人も、それを恥ずかしいとも不思議だとも思わない。
むしろ人とお風呂に入る日本の銭湯に驚くらしい。
アフリカのナミビア北部、ヒンバ族の女性はいまだ上半身裸で暮らしている。
でも、村から町に近づくにしたがって女性はブラジャーをするようになり、やがてしっかりシャツを着込むようになる。
普段裸でいる人たちが大多数の人がシャツを着ている文化に触れると、「胸をはだけていることは恥ずかしいことなのだ」と思い込み、本当に恥ずかしくなる。
たとえば手の甲を隠す民族がある。
その民族にとって手の甲を見せることはとてつもなく恥ずかしいことだ。
ある日これが世界中に広がると、私たちも途端に手の甲を出していることを恥ずかしく思うようになる。
あなたもそう思うようになるのだ。
恥ずかしさというのは文化によって作られた概念であって、いくらでも作り変えられるものだ、ということになる。
ではワイセツとは何か?
たとえば結婚前には処女であることが当然とみなされていた時代が日本にあった。
いまは違うし明治以前も違った。
しかし、いまでも「結婚前は……」と口にする人はいる。
文化が変わり、恥ずかしい基準も変わり、ワイセツの基準も変わった。
しかし基準を変えられぬ人にとって、現代社会はとんでもなくワイセツに見えることだろう。
いったいどの基準が正しいのか?
もっとも新しい現在の先進国の基準か?
すると500年後の人たちから見たら私たちはずいぶん間違った人間だということになる。
さらに500年後の人たちも1,000年後の人たちから見ればかなり間違っているわけだ。
そしたら「正しい」なんてものは永遠に存在しないことになってしまう。
こうなると、こう結論したくなる。
物事を比較してもしかたない。
それぞれは、それぞれいいところもあれば悪いところもあるはずだ。