Study 11:野生に生きる
ぼくらはいつも野生の中に生きている。
サバンナに暮らそうと、東京で生きようと。
今日ゾウに出くわして命を落とすかもしれないし、明日車に轢かれて死ぬかもしれない。
ぼくらは生きると同時につねに死んでいる。
最初に死を感じたのはアフリカだ。
エジプトの紅海でダイビングをしていたときのこと。
船の上でタンクやBCDを確認し、最後にボンベを閉めて準備を終えた。
ポイントに着き、用具を装着し、気圧を確認してそのまま海に飛び降りた。
水深18mの海底に着いたとき、突然空気が吸えなくなった。
吐いたところだったから、もう肺に空気はなかった。
バディは遠くにいて、インストラクターはこちらを見ていなかった。
海はとても静かでぼくはとても冷静だった。
いまでもその時の光景をありありと思い浮かべる。
飛行機の窓から街を見下ろすように、ぼくはバディやインストラクターや仲間たちを少し上から眺めていた。
誰もぼくを見ていなかった。
ぼくはひとりだったけれど、ぼくはすべてと共にあった。
死の恐怖も生への欲求も愛情も痛みも悲しみもなにもなかった。
光も闇も水も海底も人も魚も生も死もすべてが同一だった。
意味も目的もなくすべてが平等ですべてが静かだった。
海を吸った瞬間ぼくは海になる。
そう知った。
そしてぼくという意味、ぼくという物語は終わりを告げる。
とても静かな数秒で。
そのときインストラクターがぼくを見た。
* * *
ザンビアのヴィクトリアの滝でも死は身近にあった。
100mを超える滝が落ちるその場所でぼくは泳いでいた。
近くにはゾウもワニもカバもいた。
ぼくは日本でつねに殺す側・食べる側にいたが、ヴィクトリアの滝で殺される側・食べられる側にもいることを知った。
アフリカの空は少し軽くなってやがて日本に通じる。
アフリカの大地は湿り気を増してやがて日本に通じる。
アフリカの海はやや塩気を失ってやがて日本に通じる。
殺される側・食べられる側いるという事実も確実に日本に通じている。
ぼくらは野生の中に生きている。
そしてそんな野生の理不尽・無秩序・無意味・無目的が怖くって、ぼくらは街で野生を殺す。
木々を倒し海を埋め、大地を封じて壁囲い、温度を消して湿度をそろえ、健康を測って病気を滅し、意味と目的ですべてを埋める。
窓には意味があり壁には目的がある。
道路には意味がありビルには目的がある。
やがて空に意味を見出し花や鳥に目的を与える。
食事に意味を作り恋愛に目的を求める。
理不尽・無秩序・無意味・無目的を排除し、ひたすら合理的に生きようとする。
そして大きくなった意味や目的はぼくを覆い尽くし、やがてぼくという意味、ぼくという物語を飲み込んでゆく。
でもね。
野生は殺しても殺しても生き返る。
どんなにコンクリートで覆ってみてもタンポポは咲きイモリは歩く。
どんなに分析してみたってビールはおいしいしお腹だって痛くなる。
どんなに避けようとしたって地震は来るし転ぶことだってある。
日常のふとした瞬間に、ぼくはまた野生にいることを思い知る。
野生の中で、人が考えた意味と目的のあまりの無力さに茫然とする。
ぼくの中で瞬間瞬間に野生が死に野生が生まれる。
野生から見れば、瞬間瞬間にぼくが生まれぼくが死ぬ。
野生は泉のように毎瞬毎瞬湧き出して、力強く自由に進みゆく。
その野生の中でぼくは毎瞬毎瞬過去を把握してぼくを自覚し、未来を思って悩み努める。
野生は現在にあり、ぼくもまた現在でしか生きられない。
過去も未来も、意味も目的も、野生の、ぼくの、従属物にすぎない。
いま、ぼくはたとえ明日事故死しようと理不尽だとは思わない。
だって野生の中に生きているのだから。
意味と目的よりも理不尽・無秩序・無意味・無目的をこそ愛したい。
だってぼくらはそこにしか生きられないのだから。
ぼくらはいつもそんな野生の中に生きている。