Study 1:東大生と天然ボケ
最近東大生や東大出身の先生方と話す機会が多い。
彼らに共通するのが「天然ボケ」。
日本最難関と言われる東大理三→医学部出身の先生とも話したが、鋭さよりも天然ボケっぷりが際立っていた。
どうしてだろう?
まず、天然ボケってなんだろう?
ある問題に対して、非常識な回答をすることだ、としよう。
普通はこう答えるところを、あり得ない答えを返す。
だとすると、天然ボケというのは常識を知らないとか、客観視ができないとかそういうことのようだ。
では常識ってなんだろう?
「普通、一般人が持ち、また、持っているべき知識」(『広辞苑』)だってさ。
みんなが普通に当たり前に思っている知識のことらしい。
この能力、昔からボクにはなかった。
東大生と話していると、同じようなことをしばしば口にする。
「なんでみんな当たり前に思っているのかわからなかった」
たとえば人生。
親や先生たちはいつも「意味を考えろ」とか「目的を持て」とか言う。
素直なボクはいつも意味や目的を考えてきた。
人はなぜ生きるのか?
人はなぜ人を殺してはいけないのか?
人類を存続させるどのような理由があるのか?
子孫の繁栄や世界の発展が人間の目的だとして、じゃあその繁栄や発展自体の目的はなんなのか?
でも親や先生たちはけっしてそれらの問いに答えてくれなかった。
人間の感覚や感情は脳内の電気信号だって聞いたから、電気を消すように人を殺してもいいということになりはしないかと思って、「なんで人を殺しちゃいけないの?」と聞くと、聞いただけで怒られた。
意味を考えろって言ったじゃないか。
たとえば格差社会。
格差是正とか平等とか言われているが、ボクには昔からこの「平等」という概念がわからなかった。
いったいどういう状態になれば平等なのか?
全国民が同じ生活をすれば平等なのか?
がんばり屋もなまけ者も同じで平等と言えるのか?
努力や能力を加味するというならいったい何を基準に評価するんだ?
成績か?
それなら資本主義とどう違うのか?
何をもって平等というのかを説明してほしくて質問しても、誰ひとり答えてくれなかった。
それに、格差社会を是正する必要があるなら、当然途上国と先進国間の貧富の差も是正すべきというのが話の筋だ。
なのにそういうことを言う人はほとんどいない。
さっぱり意味がわからない。
東大生なんかと話していると、こういう話がよく出てくる。
当たり前を当たり前と認知できない。
みたいな。
たとえばこれまで会った多くの東大生は先生を、尊敬してはいるかもしれないが、信じちゃいない。
ある東大生は、学校の授業はほとんど無視して、受験術を独自に編み出して合格した。
その生徒はあの灘高出身だが、灘高にはそんな生徒が多かったという。
彼はいま受験のプロとして、高校生に「授業は捨てろ」と教えている。
彼らは教わったからといってダイレクトに信じることができず、自分で確かめようとする。
教わったことをそのまま常識としてインプットすることができず、不確かなものとして記憶するか、証明せずにはいられない。
東大生の天然ボケは、常識を常識として信仰することができない、こんなことを意味しているのではないかと思う。
そして誰も疑問を持たなかったことに疑問を持つこと。
この能力が飛び抜けているのだろう。
常識を常識としてとらえることと、常識を常識としてとらえられないところ。
当たり前のことを当たり前にやれないところ。
見方によってはバカにも見えるし、天才にも見える。
バカと天才は紙一重。
そういうこと。
とはいっても、東大生であっても、やがては常識の中に自分を適応させていく。
あらゆることに疑問を持つなんてメンドーなことしないで、仕事や研究上の問題にだけ疑問を持つようにして、社会に溶け込んでいくわけだ。
たぶん、先の受験のプロやホリえもんなんかは常識に自分を埋没させることができなかった人たちなんだろうと思う。
きっとそれは頭がいいとか悪いとかいうよりも、単純でピュアで子供のような人だということなのではないか。
そんな気がする。
ボクも常識に真っ向から対立する道を行こうとしたことがある。
(これからもどうなるかわからんけど)
常識に対応することができず、常識とは何かを考えつづけた。
で、最終的にたどり着いた問いがコレだ。
「すべての常識を取っ払ったら何が残るのか?」
常識などという曖昧なものにいちいち疑問を持って考えつづけるから疲れるんだ。
いっそのこと、常識をすべて取り去ったら確かなものだけが残るんじゃないか。
そしたら確かなものだけを大切にして生きていけばいい。
そう考えた。
いまは明確な答えを持ち、常識も大好きになった。
でもそんな場所、みんなは小学校時代にすでに通過しているんだよね。
突っ込みも捨てがたいけれどもボケもたまらない。
どっちもおもしろいということで、いかがでしょうか。