哲学的考察 ウソだ! 22:人はなぜ生きるのか? ~生きる意味・人生の目的~
人は問う。
人はなぜ生きるのか?――
人生に意味はあるのか?――
生きることの目的は何か?――
多くの人はこの問いに対して自分の思想・信条を表明して解答とする。
しかし、それらの論理的根拠は希薄で、ただそう「考えている」「信じている」にすぎない。
人々が真に欲するのは誰かが考え出した思想や信条ではない。
人の理(ことわり)の外にある人生の普遍的な意味や目的・理由だ。
このような意味や目的・理由は存在するのだろうか?
存在しないのだろうか?
それとも答えることができないのだろうか?
この問いを哲学的に考察してみたい。
* * *

■意味・目的・理由とは何か?
まず、「意味」や「理由」「目的」の定義を確認しておこう。
以下は『デジタル大辞泉』からの抜粋だ(用例は除外)。
○「意味」の意味
- 言葉が示す内容。また、言葉がある物事を示すこと
- ある表現・行為によって示され、あるいはそこに含み隠されている内容。また、表現・行為がある内容を示すこと
- 価値。重要性
○「目的」の意味
- 実現しようとしてめざす事柄。行動のねらい。めあて
- 倫理学で、理性ないし意志が、行為に先だって行為を規定し、方向づけるもの
○「理由」の意味
- 物事がそうなった、また物事をそのように判断した根拠。わけ。子細しさい。事情
- いいわけ。口実
- 哲学で、論理的関係においては結論に対する前提、実在的関係においては結果に対する原因。根拠
簡単にまとめると、以下のようになる。
意味=内容、価値・重要性
目的=目指すべき結果・狙い
理由=判断の根拠、結果に対する原因
これらはすべて過去の原因、現在の内容、未来の結果に帰結する。
「過去ああであり、現在こうであり、未来そうであってほしい」から価値を置いたり重要性を認識し、目指すべき結果や狙いとなり、判断の根拠となる。
* * *
■真理に左右される意味・目的・理由
過去ああであり、現在こうであり、未来そうであってほしい――
しかし、過去のどの時点を取るか、現在をどのように認識するか、どの時点の未来にそうあってほしいのか、については任意となる。
だから過去や未来のある時点を取った場合、さらなる過去や未来でそれが覆るような事態が起こる場合や、現在の認識の誤りが確認された場合、その意味・目的・理由は失われてしまう。
たとえば確実に1週間後に死ぬとか、1年後に人類が滅亡するとか、この世界が夢や幻だったり、死後の世界の実在性が確認されたら、多くの人にとって生きる意味・目的・理由はずいぶん変わってくるだろう。
だから人が生きることに普遍的な意味・目的・理由があるならば、もはやさかのぼれない過去の果て、完全な現在の認識、これ以上はない未来の果てが理解できていなければならないことになる。
結局、真理の問題なのだ。
そしてこれは論理的帰結でもある。
何かの正誤を判断する場合、前提・定義と矛盾があった場合にのみ「誤り」と断定できる(矛盾律)。
同様に、前提・定義とトートロジー(同語反復)である場合にのみ「正しい」と決定できる(同一律)。
正誤を間違いなく判断したければ前提・定義までさかのぼらなければならないわけだが、過去や未来、原因や結果は、過去の過去の過去……、未来の未来の未来……、原因の原因の原因……、結果の結果の結果……、と無限後退してしまう。
それぞれの果てとなる最終的な前提・定義、つまりは真理を捉えない限り、この問題は解決しえないことになる。
真理が確定できてはじめてそこから数学のように演繹して解を導くことができる。
しかし、真理が確定できないのであれば、どこかで妥協して過去・現在・未来の時点と認識を任意に定めなければならない。
この決定に人の意思が関わってくる限り、それは人の知性の外に存在する普遍の理ではない。
意味・目的・理由は人が創造した解釈であり、「私はこう考える」「私はこう信じる」という思想・信条にすぎない。
最初に真理を確定しなければ、人に関するほとんどの問題に論理的な解を導き出せないことになる。
これは人の思考の構造的な問題だ。
* * *
■真理の確定とデカルトによる神の存在証明
方法的懐疑ですべてを疑ったデカルトが「私」を発見した直後に神の存在証明を行った理由がここにある。
ぼくたちが見ているもの、感じているもの、考えていることはすべて幻なのかもしれない。
「上から下に物が落ちる」とか「1+1=2」といった普遍に思える法則でさえ、そう信じ込んでいるだけなのかもしれない。
こうしてデカルトはすべてを疑った結果、最終的に「今この瞬間の私」を発見する。
私が思い感じ考えている内容は幻だったとしても、今この瞬間に私がいて、さまざまなことを思い感じ考えている現実だけは否定することができない。
「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」だ。
そしてこの後、デカルトは神の存在証明を行う。
真理を神という言葉で示し、神の存在を確定させることで人の感性や知性の正当性を立証し、この世界を捉えなおそうとした。
最初に足場となる真理を確定しなければ、すべてを疑った状態から抜け出すことができないからだ。
デカルト後の哲学は、「我思う、ゆえに我あり」で発見された「私」を成立させている原因を突き止めようと、物理的に、あるいは感性と知性という角度から解明しようと発展していく。
しかし――
思い出す必要がある。
後世の科学や哲学はいずれも神の存在証明、あるいは真理の証明を行っていないという事実を。
「我思う、ゆえに我あり」の状態から抜け出せていない現実を。
だから哲学はつねにデカルトに戻ることになる。
戻ってこざるをえないのである。
ややこしく書いてきたが、要するに意味・目的・理由は人の知性と別に存在する理ではないということだ。
少なくとも、その理の存在は真理が解明されるまで確認されることはない。
つまり。
人が生きる意味・目的・理由は人の内側にしか存在しない。
意味・目的・理由は人が自ら創造するものなのだ。
* * *
■世界の創造者としての「私」
人が生きる意味・目的・理由は自ら創造するものだ。
しかし、それ以前に、この世界自体を半ば「私」が創造しているという事実を認識するべきだろう。
ここにリンゴがある。
リンゴは光を反射し、その反射した光を人間の目が捉える。
光から刺激を受けた神経がセンスデータ(感覚器で得られたデータ)を転送し、それを知性が統合することで「リンゴを見る」という現象が起こる。
つまり、色や形は「存在」ではない。
色という「質感」や形という「空間」を用いることでセンスデータの内容を表現しているのだ。
リンゴは光を放つものであって、放たれた光を捉えて人の知性が生み出したリンゴの像とは別の存在だ。
リンゴは人の味覚を振るわせるものであって、振るわされて得られたデータを分析して知性が生み出したリンゴの味ではない。
ということは、光を放ち味覚を振るわせる「本当のリンゴ」と、人間の知性が創り出した「観念上のリンゴ」があることになる。
ぼくらが認識しているのはつねに「観念上のリンゴ」や「観念上のPC」といった「観念上の物質」だ。
当然、「目」や「脳」、「光」といった発想もこうして得られた観念だ。
したがって脳が世界像を創り上げているということはありえない。
客観は人の感性と知性から独立したものではなく、人の主観がセンスデータをもとに創り出したものだ。
人が感性と知性をもって活動している限り、観察された対象には必ず主観が編み込まれている。
そして客観の総体が世界だ。
つまり、私たちが見ている世界の像は人の主観が半ば創り出しているのである。
世界において、存在は時間と空間によって表現される。
世界が論理的に見えるのは、世界が論理的にあるからではなく、人が知性によって、つまり論理によって世界を捉えているからだ。
そして論理という軸を得ることで正誤の判断が可能となる。
一方、社会的な存在は文化的な価値観によって彩られる。
ある種の動物を怖いと伝えている文化で育てば人はその動物を恐れ、見た瞬間に飛び上がるなど反射にまで刻まれる。
しかし、その動物を食す文化で育てば、目を輝かせてツバを飲み込むことだってあるだろう。
世界が悲しみに満ちているように見えるのであれば、それは世界が悲劇的にあるからではなく、悲劇的に世界を捉えているからだ。
こうして価値という軸を得ることで善悪の判断が可能となる。
言葉や価値観によって世界の姿は変わる。
同じ世界を見ているように見えても、人はそれぞれまったく異なる景色を見ているのだろう。
そして言葉や価値観は主観とともにある。
人の主観が人が生きる意味・目的・理由の主であり、世界の主人なのである。
* * *
■科学・宗教と人が生きる意味・目的・理由
この事実は科学がいくら進歩しても、あるいは神や死後の世界といった超常的な存在が確認されても変わらない。
科学について。
科学は人の主観を廃し、客観的な事実を解明・構築する体系だ。
科学理論の前にあるのは観察であり、観察は人の感性と知性によって成立している。
しかし、感性や知性が生み出した結果であるところの現象世界を観察して感性や知性の原因、つまり主観の原因を究明することはできない。
結果を利用して原因を探るという循環論に陥っているからだ(論点先取の虚偽)。
ぼくたちが見ている世界は人が感性や知性を使った結果であって、物理的な世界が原理・原因として感性や知性を生み出しているわけではない。
科学はその現象世界を観察して法則性を見出すが、純粋な客観を抽出することはけっしてできはしない。
これは科学の構造的な欠陥であり、この先どんなに発達しても解決されることはない。
ひとつのアポリア(哲学的な行き詰まり)なのだ。
宗教にも同様にアポリアが立ちふさがっている。
たとえば、神が存在していて死後の世界が確認されたものとしよう。
この場合、今度は死後の世界における人生の意味や目的・理由が問われることになる。
そしてその内容によって死後の世界に影響を与える現世の人生の意味も変わる。
死後の人生の意味が「徳を積むこと」であれば、現世の人生も徳を積みながら生きることになるだろう。
人生を繰り返す輪廻転生が確認された場合、輪廻転生の意味・目的・理由が問われるはずだ。
そして繰り返されるそれぞれの人生もその意味・目的・理由を引き継ぐことになる。
死後の世界や輪廻転生を抜けた先にさらなる真実の世界があるのなら、その真実の人生の意味・目的・理由が問われ、それこそが究極の意味・目的・理由に……と無限後退していく。
こうして問題はいつまで経っても解決しない。
やはり、真理の問題なのだ。
人は人の理の外にある人生の普遍的な意味・目的・理由を知りたがる。
しかし、「人の理」とは論理を示し、論理は言葉を使用する。
理の外にあるということは論理を超越しているということで、言語では示せないことを意味している。
論理外の存在を論理で表すことはできない――
トートロジーだ。
人であるがゆえに人の理の外に出ることはできない。
人生の意味を問うこの問いはアポリアであり、科学や宗教で回答されるべき問いではないのである。
* * *
■人はなぜ生きるのか?
人生の意味は「有」でも「無」でもなく「空(くう)」である。
だから空を埋めるために意味を与えなければならない。
あるいは意味を与えないことを選択しなければならない。
人生には何か意味があるのだろうか?――
こう言い換えるべきだろう。
私は人生にどんな意味を与えよう?――
私はどのような意味を創造し、それを人生に付与し、そしてその意味の下でいまこの瞬間に何をするべきだろうか?
こう問うべきではなかろうか。
意味という軸を与えることで有意味と無意味が生まれ、価値や目的に発展し、私が存在する理由や根拠に至る。
そして価値観が善悪を紡ぎ、世界をさまざまに彩り、自らの世界と人生を染め上げていく。
それは所詮、思想・信条にすぎず、論理的根拠はない。
しかし、「こうありたい」「ああ生きたい」という意志こそが私を動かし、世界を創る。
サルトルは「人は自由の刑に処せられている」と語ったが、それほどの自由が与えられているのである。
人生に意味を与えることは世界を創造することであり、その中で生きる私を創造することでもある。
それは私の感性と知性が時間と空間を利用して世界を表現しつつ、その世界の中で私として生きることを意味している。
私は世界を生み出す者であると同時に、世界に抱かれる者なのである。
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