哲学的考察 ウソだ! 17:論破とは何か? ~論破の技術と議論の考察~
論破――
最近よく聞く言葉だが、本当の意味で論破になっていることはほとんどない。
どうしたら論破になるのか?
どのように論破するべきなのか?
その条件と目的を探る。
* * *
■論破の意味と正誤の定義
論破の意味を辞書で引いてみよう。
以下は主な内容の抜粋だ。
- 論破:デジタル大辞泉
議論をして相手の説を破ること
- 論破:精選版 日本国語大辞典
議論によって他人の説を破ること。相手の理屈を立ちゆかなくさせること。説破
「説を破る」の定義を知りたいところだが、「破る」は以下のような意味となっている。
- 破る:デジタル大辞泉
- 引き裂いたり、傷をつけたり、穴をあけたりして、もとの形をこわす
- 相手の守りなどを突き抜ける。突破する
- 今まで続いてきた状態をそこなう。かきみだす
- 従来のものに代わって新しくする。記録などを更新する
- 相手を打ち負かす
- 守るべき事柄にそむく。きまりや約束などを無視する
- 傷つける。害する
「破る」は相手や相手のものを「破壊する」に近い非常に強い意味であることがわかる。
論の場合は「破綻させる」ということだろう。
そして「論が破綻する」とは、相手の論が間違い(誤り・虚偽)であることが明らかになるということだ。
- 論破とは何か?
相手の論が間違いであることを証明すること
このように論破は自分の意見とは無関係に、相手の論が間違いであると喝破することを示す。
論の優劣を競うことではないのだ。
そして「間違い」の一般的な定義は以下だ。
- 「間違い」の定義
無矛盾律:¬(P∧¬P)
Pでありかつ非Pであることはない。
つまり、相手の論の中に1つでも矛盾を指摘すれば論破したことになる。
なお、排中律や論点先取といったものもこの無矛盾律から導き出される。
そして「正しい」ことは一般的に以下のように定義される。
- 「正しい」の定義
同一律:P⇔P
PであるならPである。
P=Pのような同語反復を「トートロジー」という。
たとえば数学はトートロジーの体系だ。
「1+1=10」という数式の正誤を判定する場合、定義とトートロジーであれば正しく、内部に矛盾があれば間違いということになる。
「1+1=2」と定義されているなら、あるいは定義から「1+1=2」が導けるなら、「10≠2」であるから無矛盾律より間違いであると断定できる。
ただし、「1+1=10」が二進法で書かれた数式である場合、二進法の定義と合致するため正しいことになる。
* * *
■内部から破壊しなければ論破は成立しない
具体的に、論破はどのようにして可能だろうか?
たとえば以下のような命題(真偽の判定の対象となる文章)は真だろうか、偽だろうか?
- 命題:法的に、人を殺すことは罪である
刑法199条などでは殺人を罪と規定しているため、上の命題は条文と合致する。
したがって、真である。
このように、真偽の証明はその論理の内部の矛盾か、定義とのトートロジーによって成立する。
たとえば、「戦場では人を殺すことは罪ではない。したがって偽である」、という反論は可能だ。
この主張は「法的に」の内部に例外規定を見出し、たとえば刑法35条の正当行為や36条の正当防衛によって命題の矛盾を条件付きで証明している。
こうして条件を加えて精密化し、議論は深まっていくのである。
このように、論破は必ず相手の主張の内部で行わなければならない。
必然的に、相手の論の理解が不可欠となる。
相手を理解することなくして論破は成立しえないのだ。
言い換えると、相手を無視して展開された理論に論破されることはない。
たとえばこう主張したとしよう。
- 主張:家族が不当に殺害されたなどといった条件下では、殺人は法的に罪であっても必ずしも倫理的に罪とはいえない。したがって先の命題は間違いである
この場合、「法的」という前提を「倫理的」にすり替えて外側から攻撃している。
命題内部の矛盾が指摘されていないので間違いの証明はなされていない。
にもかかわらず「間違いである」と断定しており、この点で矛盾が生じている。
以上より、「命題は間違いである」というこの主張は間違いである。
相手の理論を無視して論を展開し、「論破した」と主張した場合、論破の定義と矛盾するためその立論は間違いであると断定できる。
つまり、外側からの攻撃(論破したとの主張)に対しては必ず論破しかえすことができるのである。
* * *
■論理が導く科学の発展
数学は厳密な定義が可能であるから矛盾とトートロジーを通して堅固な論理体系を築き上げることができた。
しかし、現実ではそのような厳密な定義は不可能だ。
「(x+y)(x-y)=x^2-y^2」という数式の左右の辺は等しく、トートロジーだ。
しかし、水に電圧をかけて酸素と水素を発生させた場合の化学反応式「2H2O→2H2+O2」の左右の辺は等しいとは言いがたく、同語反復にはなっていない。
さっきまであった水と、いまここにある酸素と水素は同じものではない。
形が違うし、エネルギー量も違うし、時間だって経っているし、存在している場所だって変わっている。
ただ、細かく観察することで「熱量が変わっている」というデータを得て、新たに熱化学方程式「2H2O=2H2+O2-572kj」を立てることができるようになる。
しかし、これでもやはり左右の辺が等しいとは到底言えない。
現実世界で左右の辺が等しくなることはありえない。
したがって科学はつねに仮説でありつづける。
そして科学的な仮説の場合、便宜的に観察結果と一致する「もっともシンプルなルール」を「正しい」ものと判断するのである。
地動説が天動説に取って代わったコペルニクス的転回は天動説が完全に破綻して起こったわけではない。
地動説の方が惑星の動きや年周視差、年周光行差、フーコーの振り子といった観察結果をよりシンプルに説明できるからだ。
地球中心の宇宙観を太陽中心へと置き換え、さらに相対的宇宙観へと変換し、時間や空間の絶対性すら放棄して新たな定義を与えてより精密な仮説を打ち立てる。
こうして人工衛星さえ打ち上げられるようになって、人の生活をより豊かなものへと組み替えていく。
経済の世界でもこうした現象はしばしば見掛けられる。
大企業の人気商品がさまざまな需要に応えようと改良を重ねて高付加価値化して市場を固めていく中で、まったく発想の異なる安価な商品が市場をアッサリと破壊してしまうことがある(イノベーションのジレンマ)。
このように、一般的な系では矛盾とトートロジーを基礎としつつも、時に前提や定義を組み替えてよりシンプルで使い勝手のよい系を構築していく。
これが科学の発展であり、生活の進歩だ。
人は論理という道具を使って人の生活をより豊かに進歩させることができるのである。
* * *
■論理が導く社会の進歩
日常の議論も以下によって発展させることができる。
- 内部の矛盾とトートロジーによって議論を深める
- 前提・定義を組み替えることでよりシンプルで使い勝手のよい系を構築する
ただし、前提・定義は合意の元で変更されるのであって、合意しない者との間では議論は成立せず、真偽を問うことはできない。
そして異なる前提や定義との優劣は結果によって、つまり進歩や発展の度合によって、あるいは個人的な満足によって、決定される。
その優劣もその時点のその合意者の判断によるのであって、普遍的なものではない。
論理的な「解」ではないのである。
日常世界の議論に当てはめてみよう。
たとえばこんな命題があったとする。
- 命題:人は人を殺してはいけない
これは真であるか、偽であるか?
相手がどのような論を展開しようと、内部に矛盾がなければ論は破られない。
歪んだ善悪観を持っていたとしても、矛盾がなければ論破することはできない。
極論として、次のような主張を行った人がいたとしよう。
- 主張:人は人を殺すべきである
このような主張でも、内部に矛盾がなければ論理的に間違いとはいえない。
しかし、社会としてはこのような人にのさばってもらっては少々困る。
だから人間社会の進歩・発展のために、事前に前提・定義を設定するのだ。
その役割を果たしているのが法律や慣習・倫理・宗教・思想などといったものだ。
あらかじめこうしたものを設定することで善悪の概念を統一し、その社会内部においてそれらと矛盾が生じた場合に悪として断罪するのである。
当然、こうした前提・定義はその社会に属する者にしか通用せず、時代の変遷に伴って変化していく。
新しい社会を創り、国家を創り、国際機関を創るにあたってその都度、前提・定義を発展させて、人はよりよい社会の創造を目指すのである。
ただ、先の命題が真理を探究する哲学的な問いである場合、このような立論は通用しない。
真理はあらゆる前提や定義を生み出す究極的な原理・原因であるからだ。
* * *
■議論の方法論
論破は相手の論の内部で矛盾によって行われなければならない。
そして議論は矛盾とトートロジーによって深められ、前提や定義を組み替えることで発展させることができる。
逆にいえば、議論を行うときは矛盾とトートロジー、前提と定義に注目するべきであるということだ。
たとえばこのような問いがあったとする。
- 問い:人の性(さが)は善であるか、悪であるか?
性善説と性悪説の問いだ。
問いが立てられて最初に注目すべきはそれぞれの単語の定義だ。
つまり、「人」「性」「善」「悪」という言葉の意味が重要になる。
そうすると、この時点で多くの問題が出てくることがわかる。
たとえば、「性善」は生まれつきの性質が善であることを、「性悪」は生まれつきの性質が悪であることを示すことになる。
善や悪が人の根源的な性質であるなら、どうしてそれが変化したり、反対の性質が生まれてきたりするのだろう?
痛みと同じようにただそのような感覚があるというにすぎないのではないか?
また、善とは何か、悪とは何かといった定義が非常に難しい。
虐殺などという誰もが悪だと考えるようなことですら、戦場では正当化されてしまうから多くの人が手を貸した。
もし善悪の判断が後天的なものであったり状況的なものであるのなら、「性」の意味と矛盾することから「性善」「性悪」という言葉自体が間違っていることになる。
一部の論破に強いと言われる人たちはこうした前提・定義の曖昧さを突いて相手を攻撃する。
曖昧であるから都合のよい前提・定義を立てて、そこから立論するのだ。
さらに狡猾な人は、自らが立つ前提・定義を明らかにせず、曖昧な立場から相手の論や前提・定義を攻撃する。
前提・定義自体は必ずしも論理的根拠を必要としないし、善悪のように証明が難しいこともある。
このためここを攻撃すれば優位に立ったように見えるからだ。
こうした相手に対しては、相手がよって立つ前提・定義とその必然性を尋ねることだ。
そして相手と自分の差異を明らかにして、議論を発展させるためによりよい前提・定義への改善を図る。
「正しい」とか「間違っている」などと軽々しく言う人は多くの場合、正誤善悪の定義、自らの前提・定義の必然性を曖昧にしている。
「頭が悪い」「バカ」などという言葉を頻繁に使う人は特にその傾向が強く、頭の良し悪しやバカの定義とその必然性、正誤善悪の定義にまで思考が及ぶことはない。
その程度なのである。
性善説と性悪説の問題でいえば、たとえばギリシア神話のギュゲスの指輪(身につけた者を透明にする指輪)の逸話のように、絶対に犯罪が露見しない状況では人は利己的に行動するという理由で性悪説を採る立場に対して、そもそも利己的に行動するのか?、その行為は本当に利己的といえるのか、利己的=悪なのか?といった具合に前提・定義に多くの疑問が生じる。
これを解消する形で議論を進めることで、論はいっそう広く深く発展するはずだ。
この問いはここでエポケー(判断停止)する。
いずれにせよこうして定義を明らかにし、必要に応じて前提を設定し、たとえば善悪観に対して共通の認識を確立し、その下ではじめて論破が可能になる。
相手に対する敬意と進歩や発展を求める意志がなければ、論破も議論も成立しないのである。
次回は山中恒著『おれがあいつであいつがおれで』の原作で知られる映画・アニメ『転校生』や、最近では新海誠監督のアニメ『君の名は。』などでおなじみの「人格入れ替わり」を通して心や魂を考察する。
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