哲学的考察 ウソだ! 15:タイム・トラベルとタイム・パラドックス1 <時間移動と独我論>
過去・現在・未来という時間を行き来するタイム・トラベル、あるいはタイム・スリップ、タイム・リープ……
世の中には数多くの時間移動の物語が存在するが、こうした時間移動はさまざまなパラドックスを引き起こすことで知られている。
その過程でパラレル・ワールドやマルチプレックス・ワールド、世界線といった概念が導入されるわけだが、どのような解釈を持ち込んでも問題が解決されているとは言いがたい。
この問題は哲学でいう時間論や独我論・観念論等に発展してとても意義深いので、今回は時間移動について考えてみたい。
* * *
■親殺しのパラドックスとブート・ストラップのパラドックス
時間移動はいくつかの種類に分けられる。
厳密な定義は存在しないようだが、おおむねタイム・マシーンのような装置で過去や未来に自分の意志で行くのがタイム・トラベルだ。
地震のような災害やなんらかの実験などで不意に引き起こされる時間移動がタイム・スリップ。
そして意識のみの移動で、身体の移動を伴わない時間移動がタイム・リープと呼ばれることが多いようだ。
ここでは主にタイム・トラベル、特に過去へのタイム・トラベルについて考察する。
単純に未来へのタイム・トラベルよりタイム・パラドックスが鮮明になるからだ。
タイム・トラベルはさまざまな問題を引き起こすことで知られる。
特に大きな問題がふたつの有名なパラドックスだ。
なお、「パラドックス」は妥当な前提からの妥当な推論によって妥当とは思えない結論が導き出されることを意味する。
- 親殺しのパラドックス
自分が生まれる前にタイム・トラベルをする→両親を殺害する→両親がいなくなるので自分は生まれない→自分が存在しないのでタイム・トラベルも起こらない→両親は殺されない→両親から自分が生まれる→成長して自分が生まれる前にタイム・トラベルをする→両親を殺害する→以下ループ
- ブート・ストラップのパラドックス
ルイス・キャロル著『不思議の国のアリス』を購入する→本を持ってタイム・トラベルをする→小説を書く前のルイス・キャロルに本を渡す→ルイス・キャロルが本を書き写して発表する→ルイス・キャロルと『不思議の国のアリス』が有名になる→時間が経過して自分が生まれる→『不思議の国のアリス』を買う→『不思議の国のアリス』を持ってタイム・トラベルする→作者であるルイス・キャロルに本を渡す→以下ループ
親殺しのパラドックスは典型的なタイム・パラドックスで、原因→結果という因果関係が未来を巻き込んでループしてしまっている。
このパラドックスははじめにタイム・トラベルを行った過去・現在と、タイム・トラベル後に新しく生まれた過去・現在が異なることに由来する。
したがってタイム・トラベルをして過去を変えた場合、多かれ少なかれこのパラドックスがつきまとう。
ちなみに、未来にタイム・トラベルをすると今度は未来が変えられないというパラドックスがつきまとう。
たとえば2050年にタイム・トラベルをして自分や知人の存在を確認した場合、その人たちはどんなことをしても2050年以前には死なないことになってしまう。
未来で確認した事実は普遍の真理となり、何をしても覆すことができないのだ。
一方、ブート・ストラップのパラドックスはループの各点を見るとさほど大きな矛盾はないように思われる。
しかし、全体を見ると「誰が『不思議の国のアリス』を書いたのか?」という解答不能の問題が立ち上がる。
因果律が破綻しているどころか原因が消滅してしまっているのだ。
SF作品ではこうした設定が意外と多く、未来人が持ち込んだなんらかの物が過去や現在の世界で飛躍的な科学的発展をもたらしたりするのだが、必然的に立ち上がる「最初に誰が発明したのか?」という問いにはほとんど答えられていない。
なお、ブート・ストラップは靴を持ち上げるために付いているストラップを意味する。
自分の履いている靴のストラップを持ち上げて自分を持ち上げる不条理、自分で自分を持ち上げる不条理を示す。
世界が合理的に動いているのであればこれらのパラドックスは解決されなければならない。
観測事実を見る限り世界は合理的であるから解決される必要がある。
続いてこれらのパラドックスの解決法を見ていこう。
* * *
■パラレル・ワールドとマルチプレックス・ワールド
タイム・トラベルを題材とした小説や漫画・アニメ・映画では親殺しのパラドックスとブート・ストラップのパラドックスを解決するためにさまざまな解釈を行っている。
いずれにも共通するのは「ループをループとして扱わない」という点だ。
現在から過去に戻り、過去と現在が変わることで矛盾が発生する。
以前の過去と変えた後の新しい過去、以前の現在と新しい現在の間に差異が生じているのだから、当然矛盾が発生する。
それなら以前の過去と、タイム・トラベルした後の新しい過去を別物として扱えばよい。
そして以前の現在と、変わった過去の延長線上に訪れる新しい現在も別物として扱うのだ。
過去のある地点をA、タイム・トラベルを開始する現在をBとしよう。
時間はもともと「A→B」と経過してきた。
現在Bでタイム・トラベルを行って過去Aに戻ると「A→B→A」となる。
さらに時間が経過すると「A→B→A→B」だ。
この流れの中で最初のAと次のA、最初のBと次のBの内容が異なることで矛盾が発生する。
それなら2度目のAとBを別物として扱えば矛盾は生じない。
タイム・トラベルした先の過去をA'、A'が進んで到達した新たな現在をB'とする。
タイム・トラベルをすると「A→B→A'→B'」となる。
「A≠A'」「B≠B'」であるから矛盾は生じない。
親殺しのパラドックスの場合、たとえば1970年に戻って両親を殺害したとする。
タイム・トラベルした後の1970年は、もともとの1970年とは別の1970'年であると考えるのだ(事件が発生して矛盾が生じた時点で1970'年が生まれると考えてもよい)。
1970年→2020年→1970'年で、1970年≠1970'年ということになる。
もともとの1970年や1970'年、何度もタイム・トラベルを繰り返すなら1970”年や1970'''年など1970年がたくさんできてしまうわけだが、こうして同じ時間がたくさん存在するという多世界や多重世界といった概念が生まれることになる。
多世界・多重世界にもさまざまな種類があるが、代表的なのはパラレル・ワールドとマルチプレックス・ワールドだ。
- パラレル・ワールド/並行世界仮説
たくさんの1970年がそれぞれ実際に存在しているという仮説。1970年や1970'年はもちろん、両親が出会わない1970"年や両親が生まれていない1970'''年など、さまざまな世界が並行して存在している。これらの別世界ははじめから存在しているという考え方と、矛盾が発生することで分岐するという考え方がある。
- マルチプレックス・ワールド/多重世界仮説
たくさんの1970年の可能性が折り重なって存在しているという仮説。1970年や1970'年はもちろん、両親が出会わない1970"年や両親が生まれていない1970'''年など、さまざまな可能性が折り重なっている。その中で、視点を定めることで自分のいる世界が確定する。確定するまで世界は実体としては存在しない。
パラレル・ワールドとマルチプレックス・ワールドにもさまざまな解釈があるが、ここでは上のように定義しよう。
その違いは簡単に言えば「実在するか否か」だが、このふたつはタイム・トラベル後に大きな違いを生じさせる。
2020年から1970'年にタイム・トラベルした場合、パラレル・ワールドではもともとの1970→2020年の時間の流れ(こうした時間の流れを「世界線」という)はそのまま存在し、その世界線においてタイム・トラベラーは過去に戻った2020年時点で消滅することになる。
マルチプレックス・ワールドで2020年から1970'年にタイム・トラベルした場合、さまざまな可能性の中から1970'年の世界が現前し、もともとの1970→2020年の世界線は消滅することになる(上書きされる、と考えてもよい)。
パラレル・ワールドとマルチプレックス・ワールドには上記以外にも中間的な解釈やさらに複雑な解釈もある。
しかし、いずれの仮説も致命的な欠陥を抱えている。
以下ではその欠陥を見ていこう。
なお、先ほど「事件が発生して矛盾が生じた時点で1970'年が生まれると考えてもよい」と書いたが、実際はこのような中途半端な仮説は採りづらい。
誰かが過去に行った時点で多かれ少なかれ矛盾は発生しており、たとえば未来の記憶を持つ者の存在や行動の変化による違いが生じており、過去改変が行われている。
それがどんなに小さなものであろうと矛盾であるし、将来的にどのような差異を生むのか予測がつかないうえに(初期値のわずかな違いが想定外の大きな変化をもたらす予測不可能性をバタフライ・エフェクトという)、そもそも矛盾量はひたすら増えつづけるのであるから未来のいつかは必ず大きな差異に至るのだ。
そのうえ「矛盾の量」というきわめて感覚的なものが物理的に何を意味し、その矛盾量がどのように測られるのか説明するのは困難であるため、シンプルに「過去に戻った時点で世界が入れ替わる」と考えた方がはるかに合理的だ。
* * *
■パラレル・ワールドのパラドックス ~世界の移動
パラレル・ワールド仮説の最大の問題点は、「タイム・トラベルになっていない」という欠陥だ。
その結果として、タイム・トラベルの意味が失われてしまう。
もともとタイム・パラドックスを解消するために多世界解釈を持ち出したはずだ。
ところがパラレル・ワールド仮説では「世界を移動した」のであって「時間を移動した」ことになっていない。
問題がすり替わっているのだ。
具体化してみよう。
第3次世界大戦が起こってしまったので、主人公が過去に戻ってその原因を解消し、戦争が起こらない平和な世界を実現したものとする。
この場合、典型的な親殺しのパラドックスによる矛盾が発生する。
過去に戻って戦争を防ぐ→平和な世界が実現したのでタイム・トラベルする必要がなくなる→タイム・トラベルしないのでやはり第3次世界大戦が起こる→という具合だ。
パラレル・ワールド仮説を採る場合、主人公はタイム・トラベルを行って過去を変えた結果、戦争が起こらない平和な世界線に移動したか、平和な世界線が新たに分岐したことになる。
一方で、戦争が起こったもともとの世界線はそのまま存続しており、元の世界線では主人公が消えただけで状況は何も変わっていない。
戦争が起こった世界線に住む人たちにとって過去は変わっていないし、そもそも「過去を変える」ことが意味を持たない。
「過去を変えると世界線が変わる」ということは、「同一の世界線内において過去はけっして変わらない」ことを意味する。
「過去を変える」とか「時間を移動する」ということは、世界線を移動した記憶を持つ主人公の主観にのみ有効で、他の人にとってはなんの意味も持たないのだ。
もともとの目的は「過去を変えて現在を変えること」、具体的には「戦争が起こらない平和な世界を実現すること」であり「みんなを幸せにすること」だったはずだ。
ところがその世界線の戦争はそのまま放っておいて、自分だけ平和な世界線を探す旅に出ることになってしまう。
さらに――
主人公の主観から外れて客観的に主人公を眺めてみよう。
この場合、「主人公が世界線を移動した」という事実も消えてしまう。
主人公が過去を変えて平和な世界線に移動したり、平和な世界線を分岐させたのではなく、たくさんあるパラレル・ワールドの中に最初からそのような世界線が含まれていたのだ。
その平和な世界線で「未来から来た」という記憶を持つ主人公がある時点で出現する。
それだけの話だ。
パラレル・ワールド仮説において「時間を移動する」とか「過去を変える」というセンテンスが意味を持つためには、移動する主体の主観がどうしても必要になる。
この時点でパラレル・ワールド仮説がきわめて独我論的な理論であることがわかる(独我論については後述)。
そして主観を持っていたとしても過去を変えることはできないし、他者を救うこともできない。
できるのは主観の主が世界線を移動したり世界線を増やすことのみなのだが、主観であるから本質的に単なる思い込みと区別することができない――
ということになる。
* * *
■マルチプレックス・ワールドのパラドックス ~世界の破壊と創造
マルチプレックス・ワールド仮説の場合、ひとつの世界線しか存在が認められない。
主人公が第3次世界大戦を阻止するために過去を変えた時点、あるいは過去に行った時点で世界が確定し、他の可能性は消滅あるいは可能性の中に埋没する。
したがって仲間を見捨てるとか自分だけ他の世界線に移動するといった問題は発生しない。
その代わり、まったく別の大きな問題が生じてしまう。
「他者」が否定されてしまうのだ。
視点の移動を解くこの解釈は最初から独我論の問題を秘めている。
独我論とは何か?
デジタル大辞泉で引いてみよう。
「真に実在するのは自我とその所産だけであり、他我やその他すべてのものはただ自己の意識内容にすぎないとする立場」、とある。
簡単に言えば、「自分の意識以外の存在を認めない」という立場だ。
ここにリンゴがある。
リンゴは光を反射し、その反射した光を人間の目が捉える。
光は目の神経に刺激を与え、刺激を受けた神経が電気信号を脳に転送し、それを脳が統合することで「リンゴを見る」という現象が起こる。
つまり、リンゴなどというものが現実に存在しているわけではない。
すべては脳が生み出した観念だ。
しかも、「脳」という発想さえそうして創り出されたものだ。
この世界のすべては空間や時間や物理法則も含めて「私」の創造した観念にすぎないのだ。
だから物質や他人などというものが実際に存在するわけではない(だから物質を観察する科学で世界を解き明かすことはできない)。
自分の意識以外は無と同然ということになる。
この独我論を念頭に、マルチプレックス・ワールド仮説を具体的に考えてみよう。
たとえば2020年から1970年にタイム・トラベルし、さらに10年ずつさかのぼって1960年、1950年、1940年に移動して2020年に戻ったとする。
タイム・トラベラーの主観上の時間の流れは「1970年→2020年→1970'年→1960'年→1950'年→1940'年→2020'年」となる。
過去が変わっているので1970年は1970'年となっている。
これは主観上の時間の流れであるが、マルチプレックス・ワールド仮説の場合、これが唯一の世界の流れなのだ。
たったひとりの主観に合わせて世界が変化しつづけている。
これは世界の改変というよりも、主観を中心とした「世界の創造」だ。
主人公が1970年に戻った時点(あるいは過去が変わった時点)で1970'年の世界が確定する。
これは主人公の主観を中心に新しい1970'年が創造されたことを意味する。
第3次世界大戦の例で言えば、過去にタイム・トラベルをして戦争を防ぐことができたとしても、以前の世界線のすべてを消し去って新たに平和な世界を創り出したことになる。
もはや神の御業(みわざ)だ。
こんな世界の創造がタイム・トラベルをするたびに起きているのだ。
さらに。
マルチプレックス・ワールド仮説の最大の欠陥は、他人の主観の解釈がきわめて難しい点にある。
無数に折り重なった可能世界を観察することで世界が確定する。
逆に言えば、主人公の視点、主人公の主観がなければ世界は確定しないのだ。
主人公には世界を確定させる力がある一方で、主人公以外の人間にはその能力がない。
つまり、他人は主観を持たないことになってしまう。
仮に、他人にも同等の視点や主観があるものとしてみよう。
しかし、他人の世界確定力を認めた場合、誰かが世界を改変した途端、世界を確定させた主観以外のすべては消滅するのだ。
ある意味で世界のすべてを滅ぼし、すべての生命を殺す行為だ。
パラレル・ワールドでは他人を見捨てて自分だけ世界線を変えることになったが、マルチプレックス・ワールドの場合は生命も物質も他者をすべて消し去ることになる。
「1970年→2020年→1970'年→1960'年→1950'年→1940'年→2020'年」という流れでいえば、これを実感できるのはこれを体験した主観だけであって、他の主観はその都度の世界改変=世界創造で生まれた主観にすぎない。
そうした仮の主観は世界創造のたびに消え去ってしまう。
主人公は世界を確定させ世界を生み出す創造神であると同時に、以前の世界を滅ぼし消滅させる破壊神でもある。
このようにマルチプレックス・ワールド仮説を採る場合、主観の独我論世界あるいは主観の持ち主が神として君臨する世界となり、その他の人間の主観は存在しないか生成消滅を繰り返す不安定な被造物としてのみ認められる。
この世界で時間移動が意味するのは世界の破壊と創造だ。
これまた時間移動の意味が変わってしまっている。
* * *
パラレル・ワールドにせよマルチプレックス・ワールドにせよ時間移動を考察していたのに世界の話にすり替わってしまった。
それもきわめて独我論的な主観世界だ。
次回の後編では時間停止の考察や思考実験を通して時間の本質に踏み込みたい。