哲学的考察 ウソだ! 12:神とは何か? 後編 <神のいる場所>
神とは一である。
そして。
神とはすべての原因である。
前回出た結論だ。
それは人の思考が生まれた原因をも語るもの。
であるから、人が思考した結果である科学理論は神を語るうえで一切役に立たない。
思考した結果で思考の原因を語ることはできない。
人間の思考には限界がある。
それを示すためによく不完全性定理・不確定性原理・不可能性定理などが示される。
しかし、科学理論でもって思考の限界を示そうというアプローチは、科学理論でもって思考の全体を明らかにしようというアプローチ同様、論点先取の虚偽に陥っている。
それならカントの示した4つのアンチノミー(二律背反。妥当な論証から矛盾したふたつの結論が導き出されること)の方がわかりやすい。
人の思考は突き詰めていくと必ずこうしたアンチノミーにたどり着く。
「物質とは何か?」で書いたけれど、もう一度記してみよう(カント『純粋理性批判』より)。
1.有限と無限の問題(はじめと終わりの問題)
物事や時間にはじまりがあるとすると、はじまりの前はなんなのか?
終わりがあるなら終わりの後はなんなのか?
世界が無限の広さを持つとしたら、「無限に広い」ってどういうことなのか?
世界が有限の広さしか持たないのなら、世界の果ての向こうには何があるのか?
2.合成と単純の問題
物がより小さな何かからできているのだとしたら、一番小さな何かはいったい何からできているのか?
そのような小さな何かが存在しないのであれば、いったい物は何からできているのか?
3.自由と必然の問題
物事すべてに理由があって、世界が必然であるなら、自由は存在しないのか?
理由がないのに物事が変化するような自由があるのであれば、その理由は何か?
4.原因と結果の問題
すべてに原因があるのであれば、最初の原因の原因は何か?
たとえばビッグバンが宇宙のはじまりであるなら、なぜビッグバンがはじまったのか?
ビッグバン以前に多次元宇宙や多重宇宙を想定するのであれば、それらの宇宙が生まれた原因は何か?
最初の原因に原因がないのであれば、原因がないのに生まれたのはなぜか?
これらは「宇宙がそうなっている」というよりも、人間の思考の問題なのだろう。
つまり言葉の限界がこの辺りにある、ということなのだ。
* * *
思考の限界を示すために、いくつかの思考実験を紹介しよう。
■世界5分前仮説
「この世界は5分前に創られた」(バートランド・ラッセル『心の分析』より)
もちろんぼくには10分前とか昨日とか子供の頃の記憶がある。
いま使っているこのPCを買ったのは昨年だし、近所の博物館には1億年前の化石だって並んでいる。
でも、5分前に神様がこうした記憶や1億年前の化石を作った、と考えたらどうだろう?
もちろん5分前じゃなくて1秒前だって構わない。
こうなるとこの仮説は反証不可能だ。
■水槽脳仮説
「現在ぼくが見ているこの世界は水槽の中で培養されているぼくの脳が作り出している幻想だ」
リンゴを見る。
リンゴから送られてきた光が右目と左目に入る。
その情報が脳に送られる。
それを分析・判断して脳はぼくたちにリンゴを見せる。
つまり「リンゴの像」というのは脳が作り出した映像だ。
ならばリンゴなんてなくたって、リンゴの情報を脳に直接送ってやれば、あるいは夢と同様脳が自分で情報を作り出すよう仕組んでやれば、ぼくらはリンゴの像を見ることができる。
こういう仮説だ。
この仮説自体は以下のように矛盾していて成立しえない。
1.脳は絶対的なもので、人が考えたり感じたりする情報は脳が生み出した相対的なものである(a.脳=絶対)。
2.脳という概念は、脳を観察したり実験したり、あるいは脳についての学説を本で読んだり、脳について学校で教わったりして学んだもので、人が考えたり感じたりして生まれた概念だ。
3.人が考えたり感じたりする情報は相対的なものであるから、脳は相対的なものである(b.脳=相対)。
4.aとbは矛盾する。
観察結果である脳という概念を利用して、人が観察する前の状態を証明する。
このように、結論を先に置いてから証明しようとする誤りを「論点先取の虚偽」という。
この仮説の矛盾は、この世界の中にあるぼくの脳と、水槽がある世界の中で浮かんでいる脳というふたつの世界・ふたつの脳を想定していることに起因する。
しかし、もう少し話を進めてみよう。
「死とは何か 前編 <本当の世界>」で書いた話だ。
リンゴの像、つまりリンゴの丸い形とか赤い色なんかが実際にあるわけではない。
目が光を捉え、その情報が脳に送られて生み出されるのが形であり色だ。
リンゴの像は脳が作ったもの。
そこまではわかった。
じゃあ、もとのリンゴの姿ってどんななんだ?
リンゴには「本当の姿」があって、そこから送られてきた光を分析して脳が見せているのが「リンゴの像」だ。
その本当の姿は、人間がいっさい感じることができないものだということになる。
だって感じるものはすべて脳がなんらかの情報を加工して作り出したものなのだから。
つまり、ぼくらの見ているこの世界とは別に、「本当の姿」が集まった「本当の世界」があることになる。
■シミュレーション仮説
「この世界はコンピュータが創り出したシミュレーション世界である」
コンピュータ内に3Dの仮想空間を作って、その中に宇宙に存在するあらゆる素粒子を配置して、シミュレーションを行ったとする。
コンピュータ内で宇宙が発達し、生物が進化して、やがて人間が生まれる。
そしてシミュレーションは21世紀に突入した。
この世界こそがそのようなコンピュータ・シミュレーションである、という話だ。
ぼくらはコンピュータ内の生物かもしれない。
そしてコンピュータにプログラムされた物質を観測することで万有引力の法則や相対性理論、量子力学を発見する。
しかし、そんな科学理論はすべてコンピュータの外にいる未知の生物がプログラムした計算式にすぎない。
そんなものを観察して世界の真理など語れるはずがない。
「脳」という概念だってそうだ。
脳というのはこの世界を観察して人間が作った概念だ。
水槽脳仮説は「すべては脳が作っている」としたが、この世界がシミュレーションだとしたら、脳なんていうのはプログラムされたものなんだから、それがすべてを作り出しているなんて言えるはずがない。
コンピュータの外にいる未知の生物には脳どころか身体さえないかもしれない。
彼らはまったく異次元に住んでいるのかもしれないのだから。
脳が世界を創ってるなんて大ウソだってことがよくわかる。
■インテリジェント・デザイン仮説(ID仮説)
「この世界は人間の知性を超えた超越者が創造したものだ」
デザインをした存在=IDerは神でも仏でも宇宙人でもいいんだけれど、超越者、つまり人間の思考を超えた者であるから「神」と定義してしまえばいいだろう。
そして前回書いた通り、神はこのように定義することしかできない。
神とは一である。
神とはすべての原因である。
これは「人間の知性を超えた超越者が世界を創造した」ということとほぼ同じ意味になる。
ID仮説もやはり反証不可能なのだ。
ただし。
「超越者」あるいは「神」は人間の思考を超えた存在だ。
「思考を超えている」=「言葉にできない」のであるから、超越者については一切語ることが許されない。
語った途端、ウソになる。
つまり。
ID仮説は否定しようがないが、ID仮説は何も語ることができない。
■ひとつの魂仮説
「魂はひとつしか存在しない」
これはぼくがよく考える仮説だ。
ぼくの魂があなたの魂と入れ替わったとする。
どうなるだろう?
「心」というのは持っている記憶を論理的につないだときに起こる感情だ。
愛犬が死んで悲しい――
この感情が起こるためには愛犬に対する記憶や、死という言葉の記憶(死の意味の理解)を伴っていなければならない。
このように、言葉のつながりによって生まれる感情の主体を「心」という。
記憶が失われると心は消えるので、心は死によって滅びるものと考えられる。
一方で。
そもそも言葉をつなぎ合わせる働きをするもの、心を生み出すベースになるものが必要だ。
コンピュータに言葉を入力しても、それだけではコンピュータに感情なんて生まれない。
感情が、心が生まれるためには記憶と記憶を結びつけるためにその間を何かが走らなければならない。
心のベースとなるものの正体はよくわからないが、人類はこれを「魂」と呼んできた。
そして魂は死とつながりがない。
記憶が失われてもそのベースにはなんの影響もないからだ。
心と魂という言葉があらゆる民族に存在するのは偶然ではなく必然だ。
そしてあらゆる民族が死を前にして、心との別れを悲しみ、魂の平穏を願って祈りを捧げる。
4万年前、言葉を持たないネアンデルタール人やクロマニヨン人でさえ、そうしてきた。
そうするだけの論理的必然性があったのだ。
さて。
ぼくの魂があなたの魂と入れ替わったとする。
ぼくの魂はあなたの持っている言葉(記憶)をつないで感情を生み出すだろう。
あなたの昨日の悲しみや今日の喜びを理解するだろう。
そうしてぼくの魂はあなたの心を生み出すだろう。
ぼくはあなたになるのだ。
つまり、「ぼくの魂」とかいう言い方がすでに間違いだ。
「ぼく」というのは心のことを示すものであって、「魂」にはぼくもクソもない。
とすると。
魂ってもしかしたらひとつしかないんじゃないか?
* * *
こうした仮説から言えることは、「世界は確たる存在ではない」ということだ。
科学理論だってそうだ。
1,000年前の科学者は1,000年前の科学を正しいと思っていたし、現在の科学者は現在の科学が、1,000年後の科学者は1,000年後の科学を正しいと思って世界を眺める。
神様を信じている人にはそのように世界が開ける。
現代科学を信じている人にはそのように世界が開ける。
神様や現代科学が正しかろうが間違っていようがそんなことは関係ない。
人が見ている世界、感じている世界は必ずその人の信仰の上にある。
人はそのように世界を規定しつつ、世界の中で生きている。
そして、「神」という概念はそれらの上に君臨する。
「一」とか「すべての原因」はそうした仮説をも説明しうる超存在だ。
神様ってね、ぼくらが思いもしないようなはるか彼方に住んでいるんだよ。
しかし。
たしかなことがひとつだけある。
この瞬間。
この瞬間の感覚だ。
ぼくはいままさに日本酒「喜久酔」を飲んでいる。
この味、この喜びだけは確実だ。
もちろん、ぼくも喜久酔も夢や幻かもしれないし、コンピュータ・プログラムなのかもしれない。
でも。
このおいしさだけは間違いがない。
もしあなたがいまという瞬間に痛みを感じているのであれば、その痛みは真実だ。
夢だろうがシミュレーションの中だろうが、痛いものは痛い。
アートの普遍性の秘密がここにある。
「いまを愛せよ」
このありふれた言葉の本当の意味はここにある。
「瞬間即永遠」
ニーチェの真意もここにある。
* * *
やたらと深いこの世界。
そのすべての原因が「神」だ。
こう定義されたら神様を否定することなんて不可能だ。
人間が偉くなったような人格神を否定することはできる。
でも「一」や「原因の原因」は否定しようがない。
無神論は結局「私は神様がいないことを信じています」という信仰にすぎない。
信仰とその体系を「宗教」という。
つまり、無神論は立派な宗教だ。
そして、世界が信仰の上にしか開けないものである以上、無宗教はありえない。
すべての人が信仰を持ち、宗教を持つ。
誰もが何かを信じている。
そして人が見ている世界、感じている世界は必ずその人の信仰の上にある。
「知らんがために我信ず」(アンセルムス)
あなたが幸せになりたいのなら、そのように信じることだ。
長々と書いてきた。
でもね、こんなこと、4万年以上前からみんな知っていた。
そうして遺体を埋葬し、心との別れを悼み、魂の平穏を願って、すべての人類が神様に祈りを捧げてきた。
人間っていいなって思う。
信じるってすばらしいって思う。
もういいんじゃなかな。
こう言っても。
「神様はいるよ」
神様については何も言えないけれどもね。
何も言えないから神様なんだし。
まぁでもぼくはこちらの言葉の方が好きかな。
「世界は空(くう)なり」
ばあちゃんはよく唱えてた。
「色即是空、空即是色」(般若心経より)
すばらしい言葉だったんだね。
どうしても論理的に語らなければならないんだったらこう言うべきだろう。
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」
(ウィトゲンシュタイン著、野矢茂樹訳『論理哲学論考』岩波文庫より)
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以上のような世界観を前提に「死」や「物質」「意識・心・霊・魂」を捉えるとこのようになります。