哲学的考察 ウソだ! 4:死とは何か 前編 <本当の世界>
「我々が生きている間に死は存在せず、
死んでしまったときに我々は存在しない。
死は生きている者にも死んでしまった者にも関わりがない」
(エピクロスの言葉。意訳)
ある人はこう言う。
死んだら自分は消滅する、無だ。
ある人はこう言う。
死んでも死後の世界がある、霊魂は消滅しない。
どちらが正しいのだろう?
答えなんて出るわけないって?
その理由は?
もしかしたらそう信じてるだけ?
* * *
脳のお話。
脳がすべてを創っているという仮説がある。
たくさんの人がそう考えているようだ。
この仮説は言う。
人が五官を通して得た情報を脳が集めて判断し、3次元のモニターにいろいろな物を映し出している。
つまり、見ている物はすべて脳が創り出したもの。
この仮説は真理ではありえない。
脳もまたそうやって生み出された観念にすぎないだからだ。
でも――
仮にこの説が正しいものとして話を進めてみる。
すべては脳が創り出したもの。
いま見ているモニターの映像も、触れているキーボードの触感も、このテキストを読んでいるモヤモヤっとした感情も、聞こえてくる音楽でさえ、すべて脳が創り出したもの。
そう考えてみよう。
たとえばリンゴを見る。
脳は右目と左目から入る光の情報を分析・判断して、ぼくたちにリンゴを見せる。
実際に「赤」とか「リンゴの丸い形」なんかがあるわけではない。
ただ、入ってきた情報を合理的に効率的に表現するには「色」や「形」という概念が必要で、その結果、「赤くて丸みを帯びたリンゴ」の映像が創られる。
ぼくらはそれを見ている。
こういうわけだ。
なかなか合理的な理論だが、ちょっと待ってほしい。
リンゴの映像は脳が創り出したものだ。
これは科学雑誌にもよく事実のように書かれていることだけれども、大きな疑問が生まれてくる。
脳が創り出す前の「本当のリンゴの姿」ってどんななんだ?
* * *
リンゴはぼくらの脳が創り出した映像にすぎない。
それなら当然それとは別に「本当のリンゴの姿」があることになる。
その「本当のリンゴ」から光やら匂いやらのもとになる情報が送られてきて、それを脳が処理して映像やら香りやらを創り出している。
だから、「本当のリンゴ」は色や形や香りで表現できるようなものではない。
ぼくらがまったく感知できない、感じることも知ることさえもできないものだ、ということになる。
赤いサングラスをかけて物を見れば、すべてが赤く見える。
ぼくらはいつだって脳というサングラスをかけて物を見ている。
じゃあ、サングラスを取ったらいったい何が見えるのか?
当然答えることはできない。
できないけれども、その「本当のリンゴ」たちが作り出す「本当の世界」は必ず存在する。
すべて脳が創っているというなら、必ず「本当の世界」が存在しなければならない。
たとえば「本当の世界」は信号だけの世界かもしれない。
0と1だけが存在する世界。
その0と1を脳が処理して世界を見せている。
ウォシャウスキー兄弟の映画『マトリックス』はそう語っていた。
しかし、「本当の世界」が0と1の世界であるという仮定を許すのであれば、あらゆる仮説が可能になってしまう。
「本当の世界」は100次元空間かもしれない。
「本当の世界」は未来と過去がごっちゃになっているかもしれない。
「本当の世界」では実は自分が女であるかもしれない。
実際に最新の宇宙論には多次元宇宙論はもちろん、あの時彼女に告白していた場合の自分とか、この会社に就職せずにあっちに就職していた場合の自分とか、あらゆる可能性の宇宙が同時に存在するという多重宇宙論なんてのも存在する。
本当に脳がすべてを創り出しているのなら、そんな宇宙論も特に不思議でもなんでもないってことになる。
いまや物理学の世界では3次元空間や、それに時間を加えた4次元時空を超えた次元の話が日常的に語られている。
ところが人には3次元空間・4次元時空しか認知できない。
というより。
人は光やら匂いやらのもとになる情報を処理し、3次元空間・4次元時空に投影し、世界を表現している。
3次元空間・4次元時空すら実在するものではなく、人間の表現形式にすぎない、ということになる。
「本当のリンゴ」のように、物には「本当の姿」が存在し、「本当の姿」が集まった「本当の世界」が存在する。
これ、脳や宇宙論に結びつけて語られるのでいかにも新しい考え方のように思われるが、実はこんなこと、古今東西あらゆる場所で語られてきた。
古代ギリシアのプラトンは物の本当の姿に「イデア」という名前をつけた。
中世プロイセンのカントは本当の姿をした物を現実の物と区別して「物自体」と呼んだ。
大乗仏教では「本当の世界」を「空」という言葉で表現し、「現在実有」の日常世界と対比させた。
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