Study 3:性格と自己言及のパラドックス
ちょっと前、久々の旅仲間と会った。
世界各国で3度も4度も偶然出くわした女の子だ。
彼女はいつも言う。
「あんたみたいに天然でなんにも考えずに生きられたら楽だろうね」
うーん、オレ、すごく考える方だと思うけど。
最近、別の旅仲間と会った。
彼女にもあっちこっちでこれまた偶然会った。
彼女はこう言う。
「あなたは闇が深すぎて近づけない」
うーん、オレ、最後は「ま、いいか」だから結構楽天的だと思うけど。
実際自分はどうなんだろう?
それがさっぱりわからない。
楽天的なのか悲観的なのか、そんなことすらわからない。
で、考えすぎる自分はこう考えてみる。
そもそも「自分のことをわかる」ということ自体、あり得るのだろうか?
ある判断を下すには、物差しが必要だ。
物差しで何かを測ると長さがわかる。
じゃあ自分自身はどうやって測るのか?
自分自身が正しい物差しであることを、どうやって測るのか?
別の物差しを使おうと思っても、その物差しが正しいと判断するのは自分の物差しでそれを測ってからだ。
だとすると、どうやったって自分自身を測ることはできない。
出た~、自己言及のパラドックス。
「『クレタ人は嘘つきである』とクレタ人が言った」(『新約聖書』「テトスへの手紙より」)の別バージョンだ。
なーんだ。
じゃあ考えたって仕方ないじゃん、数学的にあり得ないんだから。
やめやめ。
飲も飲も。
(本当は「数学的にあり得ないってどういうことだろう」って続くんだけどね)
考えに考える一方で、考えをスッパリやめたり、考えなくちゃならないことをどんどん後回しにして、まったく考えないようにすることもできるようになった。
こういう能力を「無問題能力」という。
自分にとって、これ、30代になってはじめて身につけた新しい力だ。
今日だって仕事上、問題山積みなんだが、まぁ死にはしないと思ってやめてしまった。
blogなんて書いてる時間があったら原稿書けよと思うのだが、うるせー、今日はいい酒があるんじゃいボケ、と一杯やってるわけだ。
うーん、何を言いたいんだかさっぱりわからなくなってきた。
ま、いいか。
そんなことより今日は重要なイベントがある。
新しいシングル・モルトとラムが届いてしまったのだ。
こいつぁーたいへんだ。
いま別の酒で肩を慣らしている。
ミネラル・ウオーターも用意してある。
いよいよ準備万端、新たな快楽の旅に出発だ。
さ、あけるぞ。
あけるよ。
ほいじゃ、乾杯!