哲学的考察 ウソだ! 6:言葉にできないものは存在するか?
「この世界には言葉にできないものがある」
よく聞くんだけど、科学の発展を見ていると、やがてすべては言葉で説明できそうな気がしてくる。
もしそれができたとしたら、世の中をすべて説明できる=世界は完全に機械的ってことになる。
虚しい。
果てしなく虚しい。
でもさ、本当なんだろうか?
たとえば「心」。
科学のおかげで、心はずいぶんと解明されるようになったと言われる。
心があまりに深遠なお陰でまだまだ謎は多いが、これから何百年も研究を続ければ、やがては掘り尽くされてしまうのではないかと思えてくる。
そうすると、やがて心も言葉にできてしまうのかもしれない。
科学というのは、突き詰めれば言葉だ。
言葉にできるものは解明できる。
というよりも。
言葉こそが科学だ。
水に電気を流すと泡が+極と-極からプクプク出てくる。
ここから、水が水素と酸素からできていることをつきとめる。
「2H2O→2H2+O2」という化学反応式を手に入れる。
というように、論理的・数学的に要素を分解したり・つないだりしてできあがった「体系」を「科学」という。
そして、分解したり・つないだりするときに使う道具が論理だ。
A=B。
論理の大前提となるこんな式がある。
でもちょっと考えてみてほしい。
もしAとBがまったく同じもの、たとえばAが「ぼくが去年の8月に買ったJAS M.B.のバッグ」で、Bも「ぼくが去年の8月に買ったJAS M.B.のバッグ」であるのなら、A=Bという式は結局A=Aを表しているにすぎない。
同じことしか言ってない。
これを「トートロジー(同語反復)」という。
トートロジーは何も語らない。
最初に言ったこととまるっきり同じならば、何の発見も発展も存在しない。
A=B。
もしこの式が何かを意味するならば、この式は自然と「AはBとまったく同じものではない」という意味を含んでいることになる。
つまり。
A≠B。
A=BかつA≠B。
これ、完全に矛盾してる。
数学的にはこれを満たす解は存在しない。
驚くべきことに、科学はこのような矛盾を前提に成立している。
最初の問いへ戻ろう。
「この世界には言葉にできないものがある」のか?
むしろ、「A=B∩A≠B」を仮定した幻想こそが言葉、つまり科学なのではないか?と思えてくる。
日常生活では、科学がどう考えても正しく見える状況がある反面、どうやっても言葉で説明できないものがある気がする状況というのもある。
たとえば物事を考えるとき。
何かを考えるといつも科学が言うとおりに物事が進行する。
ぼくがリンゴを落とすとリンゴはいつだってvt+(1/2)gt^2の位置にある。
でも、考えてみれば当たり前の話だ。
ものを「考える」というのは言葉をA=Bのような論理でつなぐということだ。
だから、考えると科学が正しく思えるというのは当然で、トートロジーでしかない。
考えた結果を集めているのが科学なのだから。
だからいつだって科学は正しい。
時代時代で「正しい科学」はちょっとずつ変わるけれど、それは論理の前提が変わっているからで、本質的に「科学はつねに正しい」のだ。
ちょうど、いまの人にはいまの科学が正しく思えて、1,000年前の人には1,000年前の科学が、1,000年後の人には1,000年後の科学がどう考えても正しく思えるように。
科学はつねに正しい。
そして科学は言葉で表現できるほぼすべて。
しかし、世界のすべてではない。
たとえば味。
リンゴを食べる。
リンゴを食べたことのない人にこの味をどうしたら伝えられるか?
たとえ科学が世の中の謎のすべてを解き明かしたとしても、味を伝えることはできそうになく思える。
もしこれができなければ、「言葉にできない」=「説明できない」のであるから、科学は構造的に謎のすべてを解き明かせないことになる。
幼児に歩き方を教える。
あなたは筋肉の使い方、体重の乗せ方の一つひとつを説明できるか?
できるはずがない。
だってリンゴの味ひとつ伝えられないのに、どうして「歩き方」なんていう複雑な感覚を教えることができるのか。
友達に裏切られて傷つく。
その痛みを機械にどうやって伝えることができるのか?
すべてが理論化できるのなら、その理論をプログラムとして与えてやれば機械は痛みの感情を理解するだろう。
でもそんなこと、到底できそうになく思える。
反対に。
物が落ちる。
「物が落ちる」とはどういうことか?
それは、物には重力が働いていて、重力に引かれる結果、v+gtの速さで落ちるのだと。
これでみな納得する。
なるほど「重力のせいで物が落ちるのだ」と。
ちっとも「物が落ちる」説明などしていないのに。
ただ重力という名前をくっつけて、vt+(1/2)gt^2という性格を提示しただけなのに。
なぜ引き合うのかの根本原因についてはこの2,500年間、手がかりさえも得られていないのに。
「『王子さまの故郷の星は、B612番という惑星でした』と言えば、彼らは納得し、それ以上うるさく質問してこないでしょう。そういうものです。彼らを恨んだりしてはいけません。子供はおとなの人たちを大目に見てやらなければならないのです」
(サンテグジュペリ著、小島俊明訳『星の王子さま』中公文庫より)
「あの『学ぶ』と呼ばれているものは存在しないのだ、と私は思う。おお、友よ、存在するのは知のみだ。それはいたるところにある。それは真我(アートマン)だ。それは、私の中にも、君の中にも、どのようなものの中にも存在する。そして私はこう思いはじめている。『この知の最悪の敵は、知ろうとすることであり、学ぶことだ』と」
(ヘルマン・ヘッセ著、岡田朝雄訳『シッダールタ』草思社より)
「学問とは、虚栄の別名である。人間が人間でなくなろうとする努力である」
(太宰治『斜陽』角川文庫より)
* * *
「この世界には言葉にできないものがある」
むしろこのようにすら思えてくる。
「この世界には言葉にできるものなんてあるのだろうか?」
* * *
Don't Think. Feel!
考えるな、感じろ。
(ブルース・リー。ロバート・クローズ監督『燃えよドラゴン』より)
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