哲学的考察 ウソだ! 7:無と偶然
「宇宙は無から偶然生まれました。
そのきっかけがビッグ・バンでした」
よくこんなことが書かれているけれど、たった2行の中に実体のない言葉が2つも使われている。
「無」と「偶然」だ。
まず、「無」ってなんだろう?
『大辞林』を引こう。
「[1]何もないこと。存在しないこと」
『大辞林』には意味が1~3まであるが、とりあえずここにとどめておく。
とすると、無などというものはあり得ないことになる。
だって、「無=何もないこと。存在しないこと」なのだから、「無は存在する」というセンテンスはナンセンスだ。
だから無は存在しえない。
とりあえずこう結論づけておこう。
次に、「偶然」ってなんだろう?
「偶然」という言葉はよくこんなふうに使われる。
「あそこにいたのはたまたまです。偶然偶然」
「いやー、偶然入った店で買った宝くじが当たっちゃったよ」
「限りない偶然を経て地球に生命が誕生した」
本当に偶然なんだろうか?
こんな動作を考えてみよう。
「手に持っているボールをそっと離して下に落とす」
で、ボールを落とす。
まっすぐ落としたつもりなのに右に曲がっていったとする。
こんなことを言いたくなる。
「まぁたまたまでしょ」
「偶然だよ偶然。今度は大丈夫」
偶然なんだろうか?
もちろん本当は原因がある。
風が吹いたとか、ボールに回転がかかっていてカーブしたとか、虫がぶつかったとか、何かしらの理由が必ずある。
ただ、原因をつきとめるのが不可能だったりとてつもなく手間がかかったり、そこまでやる必要がないから「たまたま」とか「偶然」という言葉を使う。
だって。
もし、ボールが右に曲がったのに一切の理由がないとしよう。
だとしたらそれは超常現象や怪奇現象の類だということになる。
だって原因がないのにボールが突如変化したのだから。
ようするに、「偶然」とは思考停止が許されるか、怪奇現象を認めるときにしか使えない言葉なのだ。
ところが、科学者でさえ「宇宙のはじめ、偶然ビッグバンが起こった」などと言う。
偶然を認めたらそれは科学ではない。
「猿の中から偶然、類人猿が生まれた」
そんなことはない。
「原始地球の原子のスープにエネルギーが加わって、偶然タンパク質が構成され、偶然遺伝子が誕生した」
違う。
怪奇現象を認めないのであれば、必ず原因があったはずだ。
では、すべては「必然」なのか?
すべてに理由があり、すべてが必然だとすれば、ぼくらの未来も何もかも、すべてが決定されていることになりはしないだろうか?
結論から示す。
「人は必然しか理解できない」
ボールが何の原因もなくいきなり曲がる。
理解できるだろうか?
そもそも「理解」とは、物事の筋道をとらえることをいう。
○だから×。
物事がうまくつながると、人は「わかった」と感じる。
「なぜ物が落ちるのか?」に対して「重力が働いているからだ」というセンテンスを結びつけて人は満足する。
「物が落ちる」という現象にただ「重力」という名前をつけただけで、落ちる理由なんて何も説明していなくても、それでも人はなんとなく筋道がうまくいっているように思えて、みんなが納得しているなら、自分も納得して「わかる」ということになるのだ。
だから、「物が落ちるのは神様が引っ張っているからだ」と信じる社会に暮らす人は、やっぱり「わかっている」のだ。
「○だから×」の○が原因、×が結果だ。
原因と結果がうまく結びついたように思えたとき、人は理解に至る。
逆に言えば、原因がないのであれば理解は不可能だ。
だから「原因→結果」の流れを経ない「偶然」を、人は理解することができない。
だから、偶然は定義されえない。
仕方ないから辞書ではこのように定義づける。
「[1]何の因果関係もなく、予測していないことが起こること。思いがけないこと。また、そのさま」
(『大辞林』)
予想外・想定外ってことだ。
感情の問題なのだ。
では、「無」や「偶然」は存在しないのだろうか?
いや、ようやく「無」や「偶然」を語るスタート地点に立てた。
古代から「無」や「偶然」はずっと問われてきたし、いまも問い続けらている。
真理の話になると、上の話がかなり違ってくる。
無機的に聞こえるこの問題が、やがて芸術とか人の心とか魂の話と結びついたりして議論はとても複雑に展開していく。
ただ、科学の世界では「無」や「偶然」は存在しない。
「量子力学の世界では偶然は確率という形で定義されている」って?
素粒子はここにある可能性もあそこにある可能性もあるとかいう。
観察してここになったりあそこになったりするのは偶然にすぎないと。
これも同じことだ。
理論化不可能なもの、理解不能なものに対して「無」や「偶然」という言葉を使っているだけだ。
その「偶然」を定義せよと言われれば途端に窮してしまう。
「よくわからないけれど、存在可能性は確率で表せる」ということにすぎないのだ。
逆に言えば、「無」や「偶然」という言葉を使わなければ語れないものがある、ということでもある。
科学は体系であるから、定義ができないためにどんな体系にも組み込むことができない「無」や「偶然」は認められえない。
ところが、世界を見回すと「無」や「偶然」がどれほどあふれていることか。
もしかしたら、世界は人知をはるかに超えているのではないか?