哲学的探究16.科学とは何か? ~科学の限界~
前回まで論じてきたように、物質を中心とするこの現象世界は客観として存在するものでなく、外部の情報を感性が捉え、知性が統合して生み出したものだ
であるから、世界をどんなに探究したところで真理にはたどり着けない。
真理は現象世界の法則や性質ではなく、現象世界を生み出すより根源的な原理・原因であるからだ。
したがって、真理を探究するためには「世界」に関する考察をエポケーし、テーマを「私」に移行する必要がある。
これまで述べてきたこうした主張をここでは「科学の限界」という視点から明らかにする。
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■主観に担保された科学の客観性
科学に関してしばしばこんな言説を耳にする。
- 世界の謎はいずれ科学によって解明される
- 科学には限界があり、人には知りえないことが存在する
どちらの主張にしてもその多くが単なる感想で論理的根拠が述べられることはほとんどない。
しかし、この結論は明らかだ。
科学には明確な欠陥があり、限界がある――
科学とは、事実を解明・構築する体系だ。
事実とは、人によって現実であると認識される客観的な出来事や現象を示す。
この時点で科学には明確な欠陥があり、限界があることが示されている。
科学は事実を観察し、より細かく分析して新たな事実を構築する(還元主義)。
星々の動きを観察して天動説の世界観を構築し、さらに細かく観察・分析して地動説の世界観に発展させ、さらに相対性理論による世界観に進化させる。
事実をより詳細精緻に組み上げていくのが科学の歴史だ。
観察データを集めることでさまざまな仮説が提唱されるが(帰納法)、こうした仮説に基づいてふたたび観察を行い、例外なく再現されていることを確認することによって証明されたものとする(再現性)。
さらに仮説に基づいて未来の、あるいは未知の現象を予測することで証明は補完され(演繹法)、逆にひとつでも例外があれば間違いであることが証明される(反証)。
このように科学理論はすべて仮説であり、完全な証明は存在しない。
数学のように厳密な定義が可能であれば定義とトートロジー(同語反復)であることで完全な証明となるが、概念の世界でしかありえない(「哲学的探究2.『正しい-間違い』とは何か?」「哲学的探究3.証明とは何か?」参照)。
このように。
科学を担保しているのは「観察」だ。
そして観察は人の感性と知性を使うことで、つまり主観によって行われる。
科学の客観性は人の主観の上に成り立っているのだ。
原理的に、科学は客観ではありえない。
この事実は、科学は主観の主たる「私」の謎、人の謎を解明できないことを意味している(自己言及のパラドックス)。
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■科学の地平、科学の限界
科学は人の主観を排除し、客観的な事実を解明・構築する体系だ。
しかし、科学が観察によって担保されている以上、主観から逃れることができない。
リンゴを落とし、その様を観察することでリンゴがt秒後にgt^2の位置に移動するという物理法則を発見する。
何度も何度も実験を繰り返すことで再現性が確保され、仮説は証明される。
こうした観察を繰り返して物質、つまり分子や原子やその他の素粒子の動きを知り、人を物質という観点から解明していく。
その結果、人の感性や知性が物質の運動と関連づけられ、なんらかの物理現象であると考えられるようになる(唯物論)。
しかし、人の感性や知性を使って観察し、その結果を利用して人の感性や知性を解明するという証明は証明になっていない。
明確に、結論を先に置いて結論に戻るという循環論に陥っている(論点先取の虚偽)。
主観を通したデータを利用して主観の主である人の本質を理解しようというアプローチはすべて失敗に終わる。
そしてこの証明が「偽」であることは、主観の主としての人に対する考察のみならず、主観によって構築された世界の真理性をも否定することになる。
人が認識している世界は感性によって得られた外部のデータを知性が分析・統合して創り上げた世界像であるからだ。
すべて主観のフィルターがかかっているのだ。
ここにリンゴがある。
リンゴは光を反射し、その反射した光を人の目が捉える。
光は目の神経に刺激を与え、刺激を受けた神経がセンスデータ(感覚器で得られたデータ)を脳に転送し、それを脳が統合することで「リンゴを見る」という現象が起こる。
人が見ているリンゴは脳が創り出したもの――と言いたくなるがそれも間違いだ。
脳という概念もそうやって構築されたものであるからだ。
とにかく、人は主観によって世界を観察し、観察したデータをもとに客観を構築する。
ぼくたちが見ている世界は人が感性や知性を使った「結果」であって、物理的な現象世界が原理・原因として感性や知性を生み出しているわけではない。
まったく逆だ。
事実とは、結果として生み出された表象世界の在り方を示す。
科学とは、その表象世界の性格を解き明かし、事実を解明・構築する体系だ。
そして真理とは、表象世界を生み出す根源の原理・原因を示す。
したがって表象世界であるところのこの現象世界をいくら観察しても感性や知性の主である人を解明することはできないし、感性や知性によって生み出される表象世界の原因を解き明かすこともできない。
真理に到達することはできない。
これが科学の地平、科学の限界だ。
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■思考実験:シミュレーション世界における科学の意味
以上の事実を思考実験を通して考察してみよう。
すでに何度か出したシミュレーション人間の設定だ。
ここに1台のスーパーコンピュータがある。
コンピュータ上の3D仮想空間に宇宙を作り、空間も時間も物理法則もエネルギー量もぼくたちが生きているこの世界と寸分違わぬように設定する。
そしてこの世界の素粒子とまったく同じ形・振る舞いをする素粒子を作り出し、この世界の物質と物理現象を正確に再現する。
その物質で宇宙を創造し、太陽を創り、地球を創る。
そして地球上に人間を創り、ぼくたちの地球とほとんど変わらぬものになったとしよう。
このシミュレーション世界の人間=シミュレーション人間にとってぼくたちは世界を創造した「神」ということになる。
では、シミュレーション人間にとって「科学」とは何か?
シミュレーション人間たちはシミュレーション世界を観察してさまざまな物理法則を発見する。
しかし、そうした法則はぼくたち神が与えたプログラムであり初期設定にすぎない。
したがってシミュレーション世界の宇宙のすべての謎を解き明かしたとしても、設定を確認した以上の意味を持つことはない。
シミュレーション人間がぼくたち神に気づくことはないし、神の視点に思い至ることもない。
不変の3次元空間を感じ、過去→現在→未来と移りゆく普遍の時の流れを感じるのだ。
しかし、ぼくたち神から見ればシミュレーション世界は0と1からなるプログラムであり、画面に表示された2次元世界にすぎない。
時間を指定すればその時間に飛ぶことができるし、早送りすることも停止することもできる。
シミュレーション人間がどんなにリアルに空間や時間を知覚しようと、空間も時間も物質も存在しないのだ。
そしてこの結論はぼくたちのこの世界にまったく同様に適用することができる。
ぼくたちは外部から得られた情報をもとに空間と時間という表現形式を利用して物質を中心とした世界像を創り上げている。
世界は表象にすぎず、空間も時間も物質も存在しない。
科学は事実を解明・構築する体系だ。
「事実を解明する」とは、表象世界の性格を明らかにすることを示す。
物が落ちる様を観察してs=gt^2という公式を手に入れる。
こうした計算を精密に行うことで人工衛星さえ打ち上げることができるようになるわけだが、それでも物が落ちる性格が明らかになっただけで、「なぜ物が落ちるのか?」という問いにはまったく触れられていない。
これは重力子や重力波が観察されてもまったく変わらない。
シミュレーション人間の科学がシミュレーション世界の初期値を明らかにすることしかできないのと同様に、ぼくたちの科学は現象の性格の一部を明らかにすることしかできない。
科学は原理・原因を解明する体系ではないのだ。
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真理を知るうえで科学はいっさい役に立たない。
世界を構成している「私」が生まれる原因を、「私」を構成する主観を使って探っても意味がないのだ。
したがって、哲学の探究は結果であるところの「世界」の考察をエポケーし、より原理・原因に近い場所にある「私」の考察にシフトしなければならない。
「客観」を生み出しているところの「主観」を探究しなければならない。
以上より、次回から「私」や「主観」の考察に移行していきたい。