絵&写真7:光と闇 ~オディロン・ルドン~
揺れる毛。うごめく虫。見つめる目。
分解される身体。歪む空間。消える時間。
深く、悲しく、恐ろしい場所。
それがルドンの闇だ。
闇が恐ろしければ闇を隙間なく埋めてしまえばいい。
言葉によって。
闇は単なる光の不在だ――
世界は唯物的に動いている――
感情も感覚も迷妄だ――
だからルドンは科学に近づいた。
そう感じる。
黒の時代の絵は思想に大きな影響を受けている。
人体や物質に対するある観念に縛られている。
でも。
闇を追い詰めれば追い詰めるほど、闇の核、闇の本質へと迫る。
言語では到底埋めきれない闇の深遠に気づかざるを得なくなる。
こうしてより本質的な闇が絶対的な恐怖を呼び起こす。
ところが。
闇に花を置くと、花は万の色彩を放ち、生々しく艶やかに輝き出す。
なぜって、闇は光の不在なのではなく、花の不在なのだから。
空間が光に満ちていても、反射するものがなければ闇に閉ざされる。
闇と同じ場所に光はあるのだ。
同様に。
哀しみと同じ場所に悦びがある。
ルドンの色彩はそう語っているように、ぼくには感じられる。
* * *
伝えられるところによると。
ルドンは幼くして母に捨てられ、父に育てられたという。
身体は弱く、性格は内向的。
描く絵はどこか猟奇的で、黒を基調としたものばかり。
40歳で結婚するが、長男はすぐに死去。
そんなルドンの絵が、待望の次男アリの誕生を機に変わる。
闇から光へ。
黒から色彩へ。
幻想から物質へ。
思想から感覚へ。
闇は光の中にあり、光はまた闇の中にある。
闇のルドンも、光のルドンも、人の形のひとつの姿なのだろう。
光のルドンの感覚こそアートだと思うが、闇のルドンの感情にも大いに共感する。
p.s.
上の「グラン・ブーケ」、なんと2.5×1.6mほどもある。
三菱一号館美術館の所蔵になったそうで、これがしばしば見れるとは、なんという幸運。
こういうところが東京で暮らすことのすばらしさだと思う。
<関連サイト>
三菱一号館美術館(公式サイト)