絵&写真6:ユトリロの視線
街を歩いていると景色がとんでもなく美しく見える瞬間がある。
ただの壁が、家並みが、街角が、車が、人が、言葉にできないくらい愛しく思える瞬間が。
かつて、その瞬間は突然、思い掛けないタイミングでやって来ていた。
スーパーで買い物をした帰りだとか、ベランダで洗濯物を干していたりだとか、旅先でボケーと景色を眺めている時なんかに。
その瞬間が来ると時間が消えた。
景色が固化し、ぼくと絵の境が消えた。
そしてその瞬間が去ってから、何かとても大切なものに触れたような気がして鳥肌が立った。
でも残念なことに、その視線は決して保存しておくことができなかった。
写真に撮っても、テキストに落としても、記憶にとどめても。
ただまたその瞬間が来ることを待つことしかできなかった。
だから昔、ぼくはその瞬間が幻影だと思っていた。
気のせいだろ、と。
ゴッホを見てそれが気のせいではないことを悟り、ユトリロを見たとき、その瞬間が見事にとらえられていることに驚いた。
ユトリロがこだわったのはパリの街の壁。
特に白漆喰。
漆喰で遊んでいたユトリロは、詩人フランシス・カルゴに「パリの思い出に何か一つ持っていくとしたら何?」と問われ、躊躇なく「漆喰」と答えたという(損保ジャパン東郷青児美術館「モーリス・ユトリロ展」より)。
そしてその白を表現するために絵の具ではあきたらず、石灰や鳩の糞、卵の殻、砂まで使って作画した。
ぼくも一時、つかれたように壁ばかり写真に撮っていた時期がある。
別に壁だけが好きだったわけではない。
ただ、壁はピントや露出に気を使ったりする必要があまりなく、その瞬間を切り取るのが簡単だったからだ。
ユトリロにとってもぼくにとっても、壁に意味があったわけではない。
意味はその瞬間にこそ、その視線にこそあった。
美によって明かされる他者の存在に。
他者によって明かされる自己の存在に。
つまり、物と命というものの存在にこそ。
そう気づいたとき、ぼくはいつでもその瞬間にアクセスできることを知った。
そしてその視線を手に入れた。
もう。
美しい景色がなくたって。
アーティストの作品がなくたって。
いつも、どこにいても、ぼくはその瞬間の中にいる。
その瞬間の中にしか、生きることができないのだから。