文学1:川の流れ
川にはなにか大きな秘密が隠されている。
そう直感して、ぼくは小さな頃、よく川を眺めていた。
川ならなんでもよかった。
家の前のどぶ川でも、キレイな渓流でも、近所を流れる大井川でも。
たとえば。
川の片隅にちょっとした淀みがある。
淀みには時々ちっちゃな泡ができる。
泡はくるくる回転して、やがて消えていく。
ふと見ていると、また泡ができている。
くるくる回転して、そしてまた消えていく。
さっき見た泡と今の泡。
同じようで違うもの。
そういう視線で見てみると、川の流れはどこを見てもそんなものだった。
水が流れていく。
そしてまた水が流れていく。
水は流れていったはずなのに、また水が流れていく。
ぼくはそんな光景を、ボケーッと何時間も見つめていることがあった。
その時のぼくは水の流れを見ていても、水を見ているのではなかったのだと思う。
多くの人が川の流れにこんな不思議を見るらしい。
最初にそんなテキストを見つけたのは、たしか小学校の授業の最中だった。
「ゆく河の流れは絶えずして
しかももとの水にあらず。
澱みに浮かぶうたかたは
かつ消えかつ結びて
久しく留まりたるためしなし」
「朝に死に夕に生まるるならひ
ただ水の泡にぞ似りける。
知らず、生まれ死ぬる人
いづかたより来りて
いづかたへか去る。
また、知らず」
(鴨長明『方丈記』より)
ぼくがいったい川になにを見ていたのか、僕自身言葉にすることができなかった。
だからこれを読んだとき、ぼくは親友ができたような心地がした。
といっても、それ以降の『方丈記』は当時のぼくには退屈すぎて、とても読めなかったけれども。
TVからはこんな歌が聞こえてきた。
「ああ 川の流れのように ゆるやかに いくつも 時代は過ぎて
ああ 川の流れのように とめどなく 空が黄昏に 染まるだけ」
(秋元康作詞、見岳章作曲『川の流れのように』より)
美空ひばりをただの演歌歌手だと思って敬遠していた小さなぼくだったけれど、この歌のせいで胸がちょっと苦しくなったのを覚えている。
川、といっても大地を流れる川でなくてもよかった。
雨の日、窓を叩く無数の水滴とそこから流れはじめる川々を飽くこともなく眺めていることもあった。
「『雷が鳴りますよ』
すると、不意に雨音が、小川と泉と滝のしめっぽい音にまじりだす。雨は掘割の音水に、銀いろのさざ波を立てた。水の上に開く窓の一つに肘ついて、小さな輪が無数にできて、それが拡大し、交錯し、滅びゆくありさまに僕は飽きることも知らず眺め入った。ときには大きな泡が、それらの小さな輪の中央へきて破裂することもあった」
(ジッド著、堀口大學訳『一粒の麦もし死なずば』新潮文庫より)
川が語りかけるこの不思議な気持ち。
2,500年前、ギリシアに生まれたヘラクレイトスは、この不思議な心を明確な言葉に置き換えた。
「同じ川に二度入ることはできない」
(田中美知太郎『古代哲学史』筑摩書房より)
川を見る。
次の瞬間も川を見る。
同じ川でも流れている水は違う。
川を成す水は次の瞬間、すべて別の水に入れ替わっている。
同じ川でも同じ川ではない。
ぼくらは同じ川を見ていると言えるのだろうか?
ぼくらは同じ川に入ることができるのだろうか?
「同じ川に我々は入っていくのでもあり、入っていかないのでもある。我々は存在するとともに、また存在しないのである」
(田中美知太郎『古代哲学史』筑摩書房より)
ぼくは明確にいま、存在している。
だって、考えてるし、思ってるし、感じている。
頬をつねれば痛い。
だから夢じゃない。
でも、次の瞬間はどうだろう?
いや、前の瞬間だってどうだったろう?
今確実にあると言えるのはただ今のみ。
未来は存在しないし、過去だって存在しない。
その今だって、すぐに過去になって消えていく。
ぼくらは本当に存在するんだろうか?
考えれば考えるほどよくわからなくなる。
でもとても、とても大切なものに触れている気がする。
ヘッセの中のシッダールタも同じ気持ちだったようだ。
「しかしこの河の秘密のうちで、彼には今日は一つだけわかった。それは彼の心を深く感動させた。彼は見た、この水は流れ流れ、たえまなく流れている、しかもいつもそこにある、そしていつも、始終同じものであり、しかもどの瞬間にも新しい! おお、このことをしっかりつかみ、このことを理解すれば!
彼はそれを理解し、とらえたのではなかった。ただ予感が、遠い記憶が、神々の声がほのめくのを感じたばかりであった」
(ヘルマン・ヘッセ著、岡田朝雄訳『シッダールタ』草思社より)
そして「生きとし生けるものすべての声が河の声の中にある」と考えた。
わかる。
わかるよ。
「『あなたも』とあるとき彼はヴァースデーヴァにたずねた。
『あなたも河からあの秘密を学びましたか、時間など存在しないという秘密を?』
ヴァースデーヴァの顔は晴れやかな微笑みに輝いた。
『そうだ、シッダールタ』と彼は言った。
『あなたの言いたいのはこのことでしょう? 河はいたるところで同時に存在する、水源でも、河口でも、滝でも、渡し場でも、早瀬でも、海の中でも、山の中でも、いたるところで同時に存在する。そして河にとっては現在だけが存在するので、過去という影も、未来という影も存在しない』」
(ヘルマン・ヘッセ著、岡田朝雄訳『シッダールタ』草思社より)
ここからヘッセはとてもとても深遠な思想を物語る。
のだけれど、あとは本でぜひ読んでほしいな。
川は昔からとても不思議なものだった。
だから古今東西のあらゆる民族が川や川を激しくした滝に神を見て、川は神になった。
たとえばすべての不浄を清める女神ガンガー。
彼女はガンジス川が神となった存在。
神が川という形で世界に降り立ったもの。
だから信心深いヒンドゥー教徒たちは、死期が迫るとガンガーに清められんとガンジス川に旅立っていく。
特に聖地中の聖地と言われるベナレス(ヴァラナシ)へ。
「すべてが浮遊していた。というのは、多くのもっとも露わな、もっとも醜い、人間の肉の実相が、その排泄物、その悪臭、その病菌、その屍毒も共々に、天日のもとにさらされ、並の現実から蒸発した湯気のように、空中に漂っていた。ベナレス。それは華麗なほど醜い一枚の絨毯だった。千五百の寺院、朱色の柱にあらゆる性交の体位を黒檀の浮彫であらわした愛の寺院、ひねもす読経の声もひたすらに死を待っている寡婦たちの家、住む人、訪う人、死んでゆく人、死んだ人たち、瘡だらけの子供たち、母親の乳房にすがりながら死んでいる子供たち、……これらの寺々や人々によって、日を夜に継いで、喜々として天空へ捧げられている一枚の騒がしい絨毯だった」
(三島由紀夫『豊饒の海(三)暁の寺』新潮文庫より)
ベナレスにはすべてがあった。
生と死、時間と次元、思考と感覚、人間と自然、そのすべてが語られていた。
でもそれはけっして醜くはなかった――とぼくは思う。
「ここには悲しみはなかった。無情と見えるものはみな喜悦だった。輪廻転生は信じられているだけではなく、田の水が稲をはぐくみ、果樹が実を結ぶのと等しい、つねに目前にくりかえされる自然の事象にすぎなかった。それは収穫や耕耘に人手が要るように、多少の手助けを要したが、人はいわば交代でこの自然の手助けをするように生れついているのだった」
(三島由紀夫『豊饒の海(三)暁の寺』新潮文庫より)
川に対する不思議な気持ち。
それがこんなに大きくなって世界を変えた。
世界は大きく大きくなった。
きっとはじめは小さな気持ち。
誰もが胸に持つ小さな小さな想いだった。
「川沿いにある屋敷のところまで行ってみた。これもぼくの散歩道だった。平たい石を投げてできるだけ幾度も水を切らせようとして遊んだ場所だ。まざまざと昔が蘇ってくる。ぼくはよくここに立って、水の流れを眺め、本当に不思議な予感をもって川下の方を見、この川の流れていく末にある地方はどんなふうのところだろうと想像をほしいままにしたが、むろんぼくの想像力はすぐ底をついてしまう。けれども構わずその先を考えていくとついには見ることのできぬ遠方を心に描いて呆然としたものだった。――そうじゃあるまいか、ぼくらの立派な先祖たちは、あんなに狭い知識しか持たなくとも、あんなに幸福だったのだ。その感情、その文学はあんなに子供らしかったのだ。オデュッセウスが、はかるべからざる海原、限りなき大地というとき、それは実に真実で人間的で切々と引き締まっていて神秘的だ。今日ぼくが小学校の生徒と一緒になって、地球は丸いなんて人まねしていったところで、それがどうだというのだろう。人間は、そのうえで味わい楽しむためにはわずかの土くれがあれば足り、その下に眠るためにはそれよりももっとわずかで事足りるのだ」
(ゲーテ著、高橋義孝訳『若きウェルテルの悩み』新潮文庫より)
川にはなにか大きな秘密が隠されている。
そう直感して、ぼくはいまでもよく川を眺めている。
そして泡を見て、ぼく自身を見つめている。
川ならなんでもいい。
いや、川でさえなくてもいい。
風の流れや時計の動き、音楽のリズム、鳥のさえずにでさえ、ぼくは川を感じる。
それは反対に、川に、風の流れや時計の動き、音楽のリズム、鳥のさえずりを感じるということでもある。
「<おれがなにもので、なんのためにおれがここにいるのか、それが分からなければ、生きてはいられぬ。だが、それを知ることがおれにはできないのだ、だから、生きてはいられないのだ>、――とレーヴィンは内心で呟くのだった。
<無限の時間、無限の物質、無限の空間の中に泡のような有機体が浮かび出る、そしてその泡は、しばらくとどまって、消えてしまう、そしてその泡が――このおれなのだ>」
(トルストイ著、中村融訳『アンナ・カレーニナ』岩波文庫より)
いろいろなものを見て、いろいろなものを知って、いろいろなことを感じ、そして考えてきた。
それでもぼくはいまだに川を見る。
その不思議はいまもってよくわからない。
「「信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です」と、美津子の心の口調はいつの間にか祈りの調子に変っている。「その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い河の悲しみ。そのなかにわたくしもまじっています」
(遠藤周作『深い河』講談社文庫より)
<関連サイト>
未来の世界遺産6 生死の境・聖地ベナレス(All About「世界遺産」)