文学3:世界のまん中
世界のまん中にはキレイがある。
美しいとか、おいしいとか、心地いいとか、気持ちいいとか、うっとりとか。
あるいは、汚いとか、まずいとか、くさいとか、痛いとか、だるいとか。
だって、ぼくらのすべての考えは、キレイをあれこれつないだものだから。
だからどんなに小さなものにも、どんなに短い瞬間にも、世界のまん中が隠されている。
砂粒にも、蜂にも、水仙にも、バラにも、オレンジにも、マドレーヌにだって。
* * *
"To see a World in a grain of sand,
And a Heaven in a wild flower,
Hold Infinity in the palm of your hand,
And Eternity in an hour."
「一粒の砂に世界を見て、一輪の野の花に天国を見る。
掌の内に無限をつかみ、ひと時の内に永遠を捉える」
(ウィリアム・ブレイク「無垢の予兆 Auguries of Innocence」より抜粋)
「蜂はお花のなかに、
お花はお庭のなかに、
お庭は土塀のなかに、
土塀は町のなかに、
町は日本のなかに、
日本は世界のなかに、
世界は神さまのなかに。
そうして、そうして、神さまは、
小ちゃな蜂のなかに」
(金子みすゞ「蜂と神さま」)
「僕にはその花が急に生きているように感じられた。それはただの物象でもなく、ただの形態でもなかった。おそらく中橋先生に言わせたら、僕はその瞬間、清らかな白い水仙の花を透視して、透明になった花の只中に花の霊魂を見たのだったろう。永い艱苦の果てに先生が竜を見たように、僕は水仙の霊魂を見たのだ、と先生は言っただろう。
しかし、僕の心はそのときはっきり、こんな考えから遠ざかっていた。もしこの水仙の花が現実の花でなかったら、僕がそもそもこうして存在して呼吸している筈はないと考えられた。
僕は片手に水仙を持ったまま寝床から立って、久しくあけない窓をあけに行った。すると早春の日ざしのなかに、今年はじめての和やかな風の運んでくる、ものの匂いや音のかずかずが、俄かに僕の耳を領した。
家は高台になっているので、遠いデパートやビル街やそこにうかぶ広告気球や、高架線の上を光って走る電車までがはるかに見える。風の加減で、雑多な物音もまじってきこえる。すべてが今朝は洗われているように見える。
僕は君に哲学を語っているのでもなければ、例え話を語っているのでもない。世間の人は、現実とは卓上電卓だの電光ニュースだの月給袋だの、さもなければ目にも見えない遠い国々で展開されている民族運動だの、政界の角逐だの、……そういうものばかりから成立っていると考えがちだ。しかし画家の僕はその朝から、新調の現実を創り出し、いわば現実を再編成したのだ。われわれの住むこの世界の現実を、大本のところで支配しているのは、他でもないこの一茎の水仙なのだ。
この白い傷つきやすい、霊魂そのもののように精神的に裸体の花、固いすっきりした緑の葉に守られて身を正しくしている清冽な早春の花、これがすべての現実の中心であり、いわば現実の核だということに僕は気づいた。世界はこの花のまわりにまわっており、人間の集団や人間の都市はこの花のまわりに、規則正しく配列されている。世界の果てで起るどんな現象も、この花弁のかすかな戦ぎから起り、波及して、やがて還って来て、この花蕊にひっそりと再び静まるのだ。
僕は遠い陸橋へ目をやった。そこを通る一台の自動車が朝の日光に光った。するとその一台の自動車も、一気に距離を失って、僕の存在とごく短かい糸で結ばれているような気がした。それも水仙のおかげなのだ。
僕は庭のすがすがしい空気を吸った。見たところはまだ緑の兆はないが、枝々の尖端がかすかに赤味を加えだした枯木という枯木は、もう冬のあいだのきびしい輪郭を失っていた。これも水仙のおかげなのだ。
まことに玄妙な水仙! うっかり僕がその一茎を手にとったときから、水仙の延長上のあらゆるものが、一本の鎖につながっているように、次々と現われて、僕に朝の会釈をした。それは水仙の謁見の儀のようだ。僕は僕と同じ世界に住み、水仙と世界を同じくするあらゆるものに挨拶した。永らく僕が等閑にしていたが、僕が今や分ちがたく感じるそれらの同胞は、水仙のうしろから続々と現われた。街路をゆく人たち、買物袋を下げた主婦、女学生、いかめしいオートバイ乗り、自転車、トラック、巧みに街路を横切る雉子猫、あの陸橋、広告気球、ビルディングの群の凹凸、高架鉄道、その遠い汽笛、アパートの窓の沢山の干し物、人間の集団、人間のあらゆる工作物、大都会そのもの、……それらが次から次と、異常なみずみずしさを以て現われた」
(三島由紀夫『鏡子の家』新潮文庫より)
「詩の中のバラは、私にとっては、あくまで言葉であるにすぎず、それ故、それは本当のバラとは似ても似つかない。それは、匂いも、色も、重さももっていない。それはただ、せいぜいわたしたちの心に訴えるものにすぎない。だが、本当のバラは、この地上に、私たちの目の前に、鼻の先に、唇の触れる所に咲いているのである。私たちは、それに触れ、その色を見、その花びらの重さをはかり、その匂いをかぎ、更に、それを踏みにじることさえ出来る。私たちは心だけでなく、自らの感官のすべて、肉体のすべて、存在のすべてをあげて、そのバラとむすばれることが出来る。そのバラは本物であり、詩の中のバラは、もし本当のバラと比較するのなら、にせ物であると私は考える。
一輪の本当のバラは沈黙している。だが、その沈黙は、バラについての、リルケのいかなる美しい詩句にもまして、私を慰める。言葉とは本来そのような貧しさに住むものではないのか。バラについてのすべての言葉は、一輪の本当のバラの沈黙のためにあるのだ。言葉は、バラを指し示し、呼び、我々にバラを思い出させる。それはまた時に、我々により深くバラを知らしめ、より深く我々とバラとをむすぶ。だが言葉自身は決してバラそのものになることは出来ない。まして、それを超えることは出来ない。言葉はむしろ常に我々をあの本当のバラの沈黙に帰すためにあるのではないだろうか。そして詩人が、バラを歌う時、彼はバラと人々とをむすぶことによって、自らもその環の中に入って生き続けることが出来るのに相違ない」
(谷川俊太郎『二十億光年の孤独』集英社文庫より)
「プレヴォーが、残骸の中に、奇蹟のオレンジを一つ見いだした。ぼくらはそれを分けあった。ぼくは嬉しくて気が転倒しそうだ、ところが、二十リットルの水が必要だという場合、オレンジ一個はいかにも僅少だ。
夜の焚火のかたわらに寝ころんで、ぼくは、この輝かしい果実を見つめている。そして自分に言い聞かせる、<世間の人たちは、一個のオレンジが、どんなものだか知らずにいる……>
ぼくはまた言う、<ぼくらは死刑を宣告されている。それなのに今度もまた、この確乎とした事実が、ぼくの喜びを妨げない。ぼくが掌中に握りしめているこの半顆のオレンジは、ぼくの一生の最も大きな喜びの一つを与えてくれる……>
ぼくは仰向けに寝て、自分の果実をすする。ぼくは流星を数える。しばらくぼくは、果てしもなく幸福だ。ぼくはまた独語する、<ぼくらが、いまその秩序に従って生きているこの世界のことは、もし人が自らそこに閉じこめられなかったら、察することもできない>と。ぼくはいまはじめて死刑囚の、あの一杯のラム酒と、一本の煙草の意味が了解できた。ぼくには、死刑囚が、どうしてあんな些細なものを受け取るのか、わからなかったのだ。ところが、彼は、実際それから多くの快楽を享けるのだ。彼がもし、微笑でもすると、人はこの死刑囚に勇気があると思いこむ。ところが彼は、ラム酒がうまいので微笑するのだ。他人にはわからないのだ、彼が遠近法を変えて、その最後の時間を人間の生活となしえたことが」
(サンテグジュペリ著、堀口大學訳『人間の土地』新潮文庫より)
「母は、『プチット・マドレーヌ』と呼ばれるずんぐりしたお菓子、まるで帆立貝の筋のはいった貝殻で型をとったように見えるお菓子を一つ、持ってこさせた。少したって、陰気に過ごしたその一日と、明日もまた物悲しい一日であろうという予想とに気を滅入らせながら、私は何気なく、お茶に浸してやわらかくなったひと切れのマドレーヌごと、ひと匙の紅茶をすくって口に持っていった。ところが、お菓子のかけらの混じったそのひと口のお茶が口の裏にふれたとたんに、私は自分の内部で異常なことが進行しつつあるのに気づいて、びくっとした。素晴らしい快感、孤立した、原因不明の快感が、私のうちにはいりこんでいたのだ。おかげでたちまち私には人生で起こるさまざまな苦難などどうでもよく、その災厄は無害なもので、人生の短さも錯覚だと思われるようになった――ちょうど恋の作用が、なにか貴重な本質で私を満たすのと同じように――。というよりも、その本質は私の内部にあるのではなく、それが私自身だった。私はもう自分を、つまらない、偶然の、死すべき存在とは感じていなかった」
(マルセル・プルースト著、鈴木道彦訳『失われた時を求めて1 第一篇 スワン家の方へⅠ』集英社文庫より)
* * *
だからね。
世界のまん中はまん中のくせにそこら中に偏在する。
ここにも、そこにも、あそこにも。
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「シッダールタは、彼の行く道の一歩ごとに新しいことを学んだ。世界は変わっていた、そして彼の心は魅了されていた。彼は、太陽が森に覆われた山の上に昇るのを、そしてはるかな椰子の生えた浜辺に沈むのを見た。彼は、夜、空に星座が連なり、三日月が一艘の小舟のように青空に浮かんでいるのを見た。彼は、木を、星を、動物を、雲を、虹を、岩を、草を、花を、小川を、河を、そして朝の草むらの露のきらめきを、青くうっすりと連なる遠い高い山脈を見た。小鳥はうたい、蜜蜂はうなった。風は稲田を銀色に輝かして吹き渡った。無限に多様で多彩なこれらのものすべては、いつも存在していたのだ。いつも太陽と月は輝き、いつも川はさらさらと音を立てて流れ、蜜蜂はうなりながら飛んでいたのだ。けれど以前これらすべては、シッダールタにとっては、彼の眼の前のうわべだけの、いつわりのヴェール以外の何ものでもなく、不審の目をもって眺められ、思考によってくまなく解明され、そして破壊されるべき定めのものであった。それは本体ではなく、本体は眼に見えるものの彼岸にあると考えていたからである。けれども今、彼の解放された眼は、此岸にとどまり、眼に見えるものを見て、認識し、この世界の中に故郷を求めて、本質を求めず、彼岸を目指さなかった。世界をこのように、何も探ろうとせず、このように単純に、このように子供のように観察すると、世界は美しかった。月と星は美しかった。小川や岸辺、森や岩、山羊や黄金虫、花や蝶は美しかった。このように無邪気に、このように目覚めて、このように近くにあるものに心を開いて、このように不信の気持ちをもたずにこの世界を歩きまわることは、すばらしく、快いことであった。頭に照りつける太陽もこれまでとは違っていた。森かげの涼しさもこれまでとは違っていた。小川や貯水槽の水の味も、カボチャやバナナの味もこれまでとは違っていた。昼は短かった。夜は短かった。一時間一時間が海に浮かぶ帆のようにすばやく過ぎ去った。その帆の下には宝物と喜びを満載した船があった。シッダールタは、猿に一群が高い森の樹冠の中を、高い枝々を伝って渡り歩くのを見た。シッダールタは牡山羊が牝山羊を追いかけて交尾するのを見た。彼はある葦の生えた湖で、カワカマスが夕方の飢えに駆られて狩りをするのを見た。カワカマスの前方では、幼魚の群れがおびえて身体をひるがえし、キラリと光って水面から跳ね上がった。猛然と駆り立てるカワカマスの描く激しい水の渦からは、力と情熱が強烈に匂い立った。
これらすべてのことはいつもずっとあったのだ。そして彼がそれを見なかったのだ。彼の心がそこになかったのである。今彼の心はここにあり、彼はこれらのものと一体になっていた。彼の眼に光と影が流れ込み、彼の心に月と星が流れ込んだ」
(ヘルマン・ヘッセ著、岡田朝雄訳『シッダールタ』草思社より)
「美しいものや芸術ほどに晴れやかで、また晴れやかな気分にするものはない――つまり私たちが、おのれ自身とこの世の燃えるような苦悩を忘れるほどに、美しいものや芸術に没頭しているときには。
それは、バッハのフーガやジョルジョーネの絵などである必要はない。それは、雲がたちこめる空からのぞく小鳥の形をした青空、カモメの動く尾羽でじゅうぶんなのだ。アスファルトの道路に浮かぶ油の虹色のシミでじゅうぶんなのだ。もっとはるかに取るに足らないものであってもじゅうぶんだ。
この至福からわれに返り、生の不幸を覚えるようになると、晴れやかさが悲しみに変わり、世界は私たちに光り輝く空のかわりに黒い地面を見せる。美しいものと芸術は人を悲しませるようになる。しかし、フーガであれ、絵であれ、カモメの尾羽であれ、油のシミであれ、あるいはもっと取るに足らないものであれ、それが美しく、神々しいことに変わりはないのである。
たとえ、あのわれと世界とを忘れた無上の幸福がほんのつかの間の持続しか許されずとも、悲しみにあふれるものに美しいものの奇跡のおかげで魔法をかけることは、数時間、数日、いや一生涯、続きうるのだ」
(ヘルマン・ヘッセ著、フォルカー・ミヒュルス編、倉田勇治訳『雲』収録「美しいものの持続」より)
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ぼくは世界のまん中にいる。
そして世界はぼくの中にある。
ぼくは美の中にいる。
そして美はぼくの中にある。
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「世界の存在は美的現象としてのみ是認される」
(ニーチェ著、秋山英夫訳『悲劇の誕生』岩波文庫より)
「芸術は生の模倣ではない。生こそがある超越的な原理の模倣なのであり、芸術によって我々はそれと疎通しあうものなのだ」
(ジャック・デリダ著、岩桑毅/野村英夫/阪上脩/川久保輝興訳『エクリチュールと差異』法政大学出版局より)