絵&写真9:マーク・ロスコの扉 ~ロスコ・ルーム~
首都圏でもっとも好きな美的空間のひとつがDIC川村記念美術館のロスコ・ルームだ。
ここにはマーク・ロスコのシーグラム壁画7点が1室に収蔵されている。
「シーグラム壁画」とは、ニューヨークのシーグラム・ビルにオープンするフォー・シーズンズ・レストランのために描いた連作30点を示す。
オープン前のレストランを見たマーク・ロスコが収蔵を拒否したためこの計画は実現せず、結局彼の死後、作品はテート・ギャラリー、フィリップス・コレクション、そしてDIC川村記念美術館に分割収蔵されることになった。
シーグラム壁画はその名の通り「壁画」。
壁一面が飾れるよう高さ約2~3m・幅4~5mという巨大な作品に仕上がっている。
3美術館は当初の意図を実現するためにシーグラム壁画のみで構成された部屋を用意した。
ロスコ・ルームだ。
彼はなぜこのような巨大な壁画を描いたのだろう?
「とても親密に、人間的にありたいからだ。小さな絵を描くことは自分を経験の外に置いて、映写機で映し出した映像を傍観するようなものだ。しかし大きな絵を描くとき、画家は絵の中に生きる。それは画家が支配する世界とは何か異質なものだ」
普段ぼくらはまるで映画でも見ているように客観的に物を見る。
リンゴというのは赤くて、スベスベしていて、甘く香って、でもちょっと酸っぱいことを知っている。
そうしたリンゴのイメージはこれまでの人生で何度も何度もリンゴを見て、触って、嗅いで、味わって、聞いた記憶を総合して作り上げたリンゴ像だ。
でも、そうやって思い浮かべるリンゴの姿は、リンゴを見たり味わったりして感じるその「感じ」とは似ても似つかない。
たとえば痛み。
包丁で指を切ったときの痛み。
目を瞑ってその痛みを感じると、それが指であるとか包丁で切ったとかそういった客観は一切消えて、ただただ痛みに満たされる。
その痛みには色も形も味も匂いも何もない。
色も同じこと。
まっ赤なリンゴを見る。
その印象には色も形も味も匂いも何もない。
ただそういう「感じ」がある。
その感じに「赤」という名前をつけたとき、はじめてそれが赤いという経験であることを知る。
リンゴを食べておいしいと感じる。
そのおいしさには色も形も味も匂いも何もない。
ただそういう「感じ」がある。
それは印象だからどうやっても他人に伝えることができないし、その瞬間にしか経験できないものだ。
その「感じ」の中に自分を埋没させるために、マーク・ロスコは巨大な絵を描いて没入しやすい状況を作り出した。
「多くの人が私の絵を前にして崩れ落ち、嗚咽を漏らすのは、私が人間の根源的な感情を伝えることができるからだ。私の絵の前で涙を流す人は、私が絵を描くときに感じたものと同じ宗教的な体験をしているのだ。そしてもしその印象が色彩の関係性によってのみ体験されるというのであれば、その主張は的を射ていない」
マーク・ロスコが描きたかったのは色や形ではない。
絵ではない。
「感じ」だ。
「感じ」はきわめて個人的で瞬間的な体験だ。
他人には、いや自分にさえ、伝えることも持ち越すことも思い出すこともできない。
その瞬間感じることができるだけで、一瞬後には「感じ」とは似ても似つかぬ「記憶」にすり替わってしまう。
ところが、自分の奥底に潜むその「感じ」は全人類が共通して感じられるものでもあるとも推測できる。
でなければなぜ多くの人が彼の絵を前にして崩れ落ち、嗚咽を漏らすのか?
つまり。
「感じ」はきわめて個人的で瞬間的な体験であると同時に、きわめて普遍的で永遠的な体験なのだ。
芸術作品が時代や国境を越える理由がここにある。
人はこうして何かを感じ、その情報を総合することでリンゴがリンゴであることを知り、そのリンゴが落ちることで物理法則を発見し、世界を自分自身で規定しながらその世界で暮らす。
人は世界を創造しながらその中に生きている。
人が創り上げたこの世界と、人が創り上げる前にあった「感じ」の世界。
ぼくらはどちらの世界に生きているわけでもなく、どちらの世界に生きているのでもある。
言えるのはふたつの世界の関係性だけ。
「私は心の中に生み出された世界と、神によってその外に生み出された世界の、等質な存在性を主張する」
マーク・ロスコの絵はしばしば扉のようだと言われる。
もちろん扉の絵であるはずがない。
心の中に生み出された世界と、神によってその外に生み出された世界。
ふたつを往復するための扉そのものなのだ。
<関連サイト>