絵&写真8:アートと魂 ~抽象画とジャクソン・ポロック~
ジャクソン・ポロックは言う。
「私の絵の源泉は無意識である」
でも、すべての芸術は無意識への、魂への挑戦なのではないか。
そして抽象画はそのためのとても合理的な方法だと思う。
感情はロジックだ。
人は「○○だから××だ」という論理の中で感情を生み出す。
だから人が亡くなったことを認識しない人間が人の死を悲しむことはない。
感覚は直感だ。
おいしさや痛みに論理は必要ない。
思考力のない人でも殴られれば痛がる。
だから「感じる」ことはとても簡単なことだと思われがちだが、実は感覚だけを抽出することは非常な訓練や才能を必要とする。
感覚はつねに論理によって歪められているからだ。
たとえば。
虫=汚いという論理を自分の中に植え付けてしまった人は虫を素直に見ることができない(ゴキブリのように)。
クジラ=神聖という論理を信仰してしまった人はクジラの刺身を見た瞬間に吐き気を催す。
きれい-汚い、怖い-怖くない、良い-悪い等々、教育によって所属する文化の論理を先入観として身体に刻みつけ、そうしたバイアスを通して物を見るよう訓練づけられる。
そうしたバイアスは時代や文化によって異なるもので普遍性はない。
では、そうした論理を取り去ったらいったい何が残るのか?
その試みがアートだ。
時代や文化によらぬ普遍の探究が芸術の目的だ。
方法はひとつしかない。
「自分の感覚だけを信じること」
花を見る際にも「花とは……である」というような先入観を排除して見るのだ。
「例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花が咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(スミレ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えて了うことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。画家は、皆そういう風に花を見ているのです。何年も何年も同じ花を見て描いているのです。そうして出来上がった花の絵は、やはり画家が花を見たような見方で見なければ何にもならない。絵は、画家が、黙って見た美しい花の感じを現しているのです」
(小林秀雄著『小林秀雄全作品21 美を求める心』新潮社より)
これを徹底するとスミレとか花とかいう概念さえ不要になる。
花びらとその周りの空間に境界を与えているのは人間の勝手な先入観だからだ。
花とその周りの空気を一体化して捉える。
ロジックが与えるあらゆる境界を排除してただ「美」だけを抽出する。
すると形が消え色が混ざり合う。
子供や心に障害をある方が描いたすばらしい絵を見たことがある。
それはいつも抽象画のような作品だった。
彼らがそんな絵を描く理由は、技術がないということもあるだろうが、それ以上に言葉を知らず、先入観に犯されていないからだろう。
抽象画はとても合理的な表現方法だ。
形がないから名前に惑わされる恐れがない。
スミレなんて言葉でカテゴライズされる心配がないから素直に美だけを表現することができる。
抽象画は難しいと言われるが、むしろ簡単だとぼくは思う。
「美しい自然を眺め、或は、美しい絵を眺めて感動した時、その感動はとても言葉では言い現せないと思った経験は、誰にでもあるでしょう。諸君は、何んとも言えず美しいと言うでしょう。この何んとも言えないものこそ、絵かきが諸君の眼を通じて直接に諸君の心に伝え度いと願っているのだ。音楽は、諸君の耳から這入って真直ぐに諸君の心に到り、これを波立たせるものだ。美しいものは、諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。絵や音楽が本当に解るという事は、こういう沈黙の力に堪える経験をよく味(あじわ)う事に他なりません。ですから、絵や音楽について沢山の知識を持ち、様々な意見を吐ける人が、必ずしも絵や音楽が解った人とは限りません。解るという言葉にも、いろいろな意味がある。人間は、いろいろな解り方をするものだからです。絵や音楽が解ると言うのは、絵や音楽を感ずる事です。愛する事です。知識の浅い、少ししか言葉を持たぬ子供でも、何んでも直ぐ頭で解りたがる大人より、美しいのに関する経験は、よほど深いかも知れません。実際、優れた芸術家は、大人になっても、子供の心を失っていないものです」
(同上)
ポロックの言葉、「私の絵の源泉は無意識である」の真意は「意識の排除」、つまり「すべての先入観の排除」にこそある。
だからこそポロックは言う。
「わたしには“抽象表現主義”などどうでもよい……それにこれは明らかに“非対象的”でも“非再現的”でもない。わたしはある時にはきわめて再現的であり、またいつでも少しは再現的である。しかしあなたがあなたの無意識をもとにして絵を描けば、形象は生まれ出ずにはいない」
(『美術手帖 1968年1月号』収蔵、宮川淳著「ポロック・その言葉――イメージの回生を求めて」より)
先入観を排除して感覚で得た情報をそのままキャンバスに描くことができれば、誰にでもアートは生み出せる。
ポロックは先の言葉で「無意識」という言葉を使ったが、心理学という先入観も排除すべきだった。
少々オカルト的なイメージがつくことは否めないが、それでも無意識を「魂」と表現した方がはるかにポロックの意に沿うだろう。
とにもかくにもポロックは無意識的に絵を描いた。
自分の中にあるものをそのまま描いた。
ポロックはインタビューに応えてこう言ったという。
「絵を描いているとき、私は自分が何をしているか自覚していない。ただちょっとその絵と知り合ったとき、私は何をしていたのか理解するのだ。私はイメージが変わったり壊れることを恐れない。絵には生命そのものが宿っているからだ」
ポロックの作品はポロックの魂そのものなのだ。
でもぼくは思う。
はたしてポロックの描いた魂はポロックの魂だと言えるのだろうか?
感情はロジックだ。
だから「心」は極めて言葉的なものだ。
アートとは言葉を排除して、心を超えて感覚に、心より深くにある存在=魂にアクセスする方法だ。
そしてアートは後天的な情報を排除したものであるから、普遍的なものであるとも言える。
アートが時代を超えるということは、言い換えれば「すべての人間は言葉を排除したら同じことを感じる」ということだ。
ポロックが言うように、無意識に絵を描けば人は同じような物を描き、同じ物に感動するのであるのなら、結局ぼくらは同じ存在でしかないのではないか?
魂ってもしかしたらひとつしかないんじゃないか?
もちろんここでいう「魂」とは、人の中にいる正体のわからない不可知な存在のメタファーだ。
ポロック展を見て、ぼくはぼくの中にある何者かと、人類を貫く何者かを感じることができた。
後者については「神」という言葉を使ってもよいのかもしれない。
ポロックの絵には魂と神に通じる何かがある。
梵我一如。
私(アートマン)と宇宙(ブラフマン)に通じるものがある。
やはりポロックは超一流のアーティストなのだと再認識した。